1. 【1】たとえばいま、ホームレスが地下街の通路で
寝るのをやめさせたいとしよう。我々はもちろん法によってそれを禁じたり、それはよくないことだと社会
規範に
訴えて説得することができる。【2】地下街という公共の空間の価格を操作することはできないが、
代替財である安アパートや簡易
宿泊所の価格を引き下げることができれば、結果的に地下街で
寝る人は減ることだろう。財の価格や供給水準を決める市場のあり方によって、人々の行動は左右される。
2. 【3】これに対し、たとえば
妙な
突起物を設置していくことによって、
寝ころぶことのできる
隙間を物理的になくしていくとすれば、それがアーキテクチャによる支配である。レッシグは「社会生活の『物理的につくられた
環境』」をアーキテクチャと呼んでいる。【4】我々がその内部で
行為を行なう空間のあり方それ自体に操作を加えることによって、我々の行動をコントロールすることが可能になるのだ。
3. もちろん先ほどの地下街の例は、
架空のものではない。【5】新宿駅の西口から都庁に向かう地下通路の目立たない部分、周囲から
引っ込んで人々の通行しにくい部分、
言い換えればホームレスたちが通行人に
邪魔されることなく
寝転がれるような部分には、青島都知事時代の一九九六年、オブジェと
称する奇態な出っ張りが設置された。【6】
斜めに切り取られた
先端は、ホームレスをその領域から完全に
排除することを
狙っている。通路の反対側、動く歩道とのあいだに設けられたフェンスも、歩道とのあいだを仕切るだけでなく、一定の面積が確保されることを
妨害しようとしているのだろう。
4. 【7】自然法則は
誰かが決めたものではないから、我々が空を飛べないことは自由に対する制約ではないと、リバタリアンは言ったのだった。だが法則それ自体はそうだとしても、それが働く
環境自体を操作することによって我々が何かをする可能性があらかじめ
奪われているとすれば、それもまた自由の
侵害にはあたらない、のだろうか。
5. (中略)∵
6. 【8】ところがアーキテクチャは、そのような意識を必要としない。「
鍵は、
鍵がドアをブロックしているのを
泥棒が知らなくても、
泥棒を制約する」(『CODE』)。アーキテクチャの権力は、我々がそれに気付くことなく、我々の
行為に先立って事前(ex ante)に、我々の
行為を制約する。【9】法律や
規範に対して何の知識も持たない存在も、アーキテクチャに従わせることはできる。いやそれどころか、人格なき存在であっても支配の対象にできることは、
鍵のかかったドアの内側には
誰も――人間だけでなく犬や
猫も入れなくなることを考えればわかるだろう。アーキテクチャの権力は、「個人」を必要とはしない。
7. 【0】我々は知らないうちに、ある一定の
行為可能性の
枠の内側に閉じこめられているのかもしれない。その
枠の内側では我々の
行為選択に制約を加えるものはなく、我々は完全な消極的自由を
享受できるとしよう。だがこれは本当に自由なのだろうか? もし我々がその制約の存在を知っていたとして、それでもなお我々の
選択はそのような制約がない場合と同じだと知ることができるだろうか。我々は迷路に閉じこめられたマウスと、どこがどのくらい
違うのだろうか?
8. (大屋
雄裕『自由とは何か――
監視社会と「個人」の
消滅』)