長文 1.3週
1. 【1】言葉というものは、具体的な名詞や動詞から、次第に抽象ちゅうしょうの過程を経て一般いっぱん的、普遍ふへん的な概念がいねんへと成長するものであるが、日本語はその初期の段階で、きわめて高度な中国語の洗礼を受けた。【2】その結果、日本語は、具体語から抽象ちゅうしょう語へといういわば自然の成長をせずに、いきなり高いレベルの中国語を漢語としてそっくりそのまま借用することになった。しかし、日本に一挙に流入した中国語の抽象ちゅうしょう名詞は、日本人には容易に理解できるものではなかった。【3】それを何とかわかろうとするためにはただ一つの方法しかない。すなわち、漢語の抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを具体的なイメージに置き換えるお か  、ということである。こうして日本人は、中国語のさまざまな抽象ちゅうしょう語を、具体的なものに翻訳ほんやくして理解しようとしたのである。【4】いいかえれば、日本人のものの考え方は、具体から抽象ちゅうしょうへ進むのではなく、反対に、抽象ちゅうしょうから具体へというコースをたどったのだ。
2. たとえば「自然」あるいは「造化」という漢語を日本人はどのように理解したか。このような抽象ちゅうしょう的な概念がいねんは、到底とうてい日本人の手に負えなかった。【5】だから、老子や荘子そうしの説く無為むい自然といった思想は、ものになぞらえて具体的なイメージで解釈かいしゃくするほかなかった。そこで、「自然」あるいは「造化」の観念は、日本では「花鳥」や「風月」のイメージに翻訳ほんやくされたのである。【6】中国では、「花鳥」や「風月」や「山水」という具体的なイメージから、やがて「自然」「造化」という普遍ふへん的な概念がいねんへ至ったのであったが、日本では逆に、中国から受けとった「自然」「造化」なる抽象ちゅうしょう語をもとの「花鳥」や「山水」へと連れもどし、そうした具体的なものを通して「自然」「造化」を理解したわけである。
3. 【7】その結果、日本人にとって具体的なものは、その中に抽象ちゅうしょう性をふくんだ独特の概念がいねんとなった。つまり、日本人の描くえが 具体的なもののイメージは、単なる具体的なものでなく、象徴しょうちょう性をおびることになったのである。
4. 【8】芭蕉ばしょうにおける「造化」の観念は、まさしくそれであった。かれ∵は、「造化」という抽象ちゅうしょう的な概念がいねんを「たどりなき風雲」に、あるいは、「花鳥」に移しかえ、そうした具体的なイメージで、「造化」「自然」を感得したのだ。だから、かれ俳諧はいかい詠まよ れる「花鳥」や「風月」は、けっして、たんなる花や鳥や月ではない。【9】具体的な花や月は、その中に「造化」という観念を秘めている象徴しょうちょうなのであり、いわば自然の代表なのである。そこで、「見る処、花にあらずといふ事なし、思ふところ、月にあらずといふ事なし」という信念になる。そして、ここに至って、こんどは、具体が抽象ちゅうしょうへと転化する。【0】即ちすなわ 具体的なものが抽象ちゅうしょう性を獲得かくとくするのである。日本の短詩、和歌や俳諧はいかいの秘密はここにある。芭蕉ばしょうが「松の事は松に習へ、竹の事は竹に習へ」と説いたのは、芭蕉ばしょうの弟子土芳とほうが解説しているように、松や竹をただ対象として見るのではなく、象徴しょうちょうとしてとらえよ、ということなのだ。
5. こうした日本特有のものの見方、考え方を「もの(物・者)」という大和言葉が一身に背負うことになった。中村氏は、前記のように、「一般いっぱんに主観に対立するものとしての対象を表はす語は本来の日本語には存しない」として、「もの」という言葉が、客観的な意味にも主観的な意味にも用いられている点を指摘してきされているが、確かに「もの」とは、主・客が融合ゆうごうした、そして、現実と本質とが合体した日本人の思考の磁場のような働きをしている。「もったいない」という日常語は、考えてみれば、なんと日本的な言葉! といえないであろうか。

6.(森本哲郎てつろう『日本語 表と裏』による)