1. 言葉の裏返しを考える上でいつも思い出すのは五味
太郎の『あそぼうよ』というごく幼い子向きの絵本である。
2. 登場するのはことりとおじさん風のきりんだけ。ことりが「あそぼうよ」というと、きりんが「あそばない」と答える。毎ページ、このくりかえし。しかし、絵をみるとこのきりんおじさんはなかなかふざけんぼで、首をくるくるまわしたり、かくれんぼしたり、あげくのはてはことりを背中に乗せて泳いだり、サービス満点の遊び相手なのだ。しかし口にする言葉は
徹頭徹尾「あそばない」。最後にことりが「あした また あそぼうよ」とうれしそうに飛び去るときも、きりんおじさんはとっぽい顔で「あした また あそばない」とこたえる。
3. この絵本、まじめな保育園
幼稚園の先生方には評判はよろしくなかったらしい。どこかの園長先生から「せめて最後だけはあそんでほしかった」という
抗議の声が寄せられたという話を聞いて笑ってしまった。が、このやり取りの面白さを大人が理解して楽しく読めば、子どもたちはてきめんに喜ぶ。子どもたちはくり返しをすぐ覚え、きりんおじさんになって、わたしが「あそぼうよ」と呼びかけると、みんなで声をそろえて「あそばなーい」と
叫び、くすくす笑うのである。意味の上で反対のことを言っても相手と通じ合うというコミュニケーション体験は、この相手ならばこそ、という
濃厚な関係を
互いに意識させる。だから、くすぐったい。子どもたちはきりんおじさんになって、言葉の文字通りの意味を
超えて相手に
触れるのである。そう、ここでは言葉は相手に
触れる道具になっている。そのためには文字通りの意味が過激であるほうが
触れるという感覚を強くする。言われた方は、はっと胸を
突かれ、
瞬間、立ち止って、相手の意図を知って笑う。こんな
触れ合いが成り立つためにはなんといっても
お互いのゆるぎない
信頼関係が前提になるではないか。
4.「ウソ」「マジ」もこれと同じだと思う。不信の念を過激に表せば表すほど、言葉の意味を
超えた次元での
互いの
信頼関係は強固に確認される。言葉によるスキンシップといってもいいかもしれない。∵電車のなかなどで数人の若い人の会話を聞いていると、「ウソッ」「マジッ」がやたらと耳を打つ。どうやら会話の内容には重みはなさそうで、場をもたせるのが大切らしい。ごにょごにょと話があると、
間髪をいれず「ウソッ」、「マジイー」と来る。
謡曲の
鼓のようにそれが「カーン」と
響き、会話を支えている。「ウソ」「マジ」は心の
絆を確かめ合い、安心して次に進む会話の青信号のようだ。「ほんと」よりもずっと相手の心のど真ん中を
突いて親しさを盛り上げている。若い人たちの間で
瞬く間に広がっていったのもうなずける。しかし、あいづちの言葉などは使う
頻度が高いから、使っているうちに洗いざらしになって、当然、色あせてくる。ショウ
迫力も失せてくる。中高生たちの会話に耳を
傾けていると、「ウソ」も「マジ」も、もうそんな
鮮度は失って、ごく自然に、
普通に使われている。昨日も
塾に来ているおとなしい地味なタイプの中学生の女の子がふたり、仲良くなって静かに会話をかわしていたが、「ウソ」や「マジ」がささやき声で行き交っていた。たった二十数年でこんなふうに言葉の命の変化を見極められるなんて面白い。万が一「マジ」が生き残ったら、五十年後、ふたりの老人が日向ぼっこをしながら、
互いに「マジッすか」と静かに言い交わし、語り合う場面があるかもしれない。
5. おやおや、どこかから高校生たちの声がする。「ありえな〜い!」
6.(長谷川
摂子の文章による)