長文 8.1週
1. 【1】実は現在インターネットの上では二つの力が争っていると思うんです。一方はそれを資本主義化してしまおうという力、もう一方はそれを贈与ぞうよ交換こうかんの世界へ引き戻そひ もど うという力です。
2. 【2】インターネットは、その出発点においては、アメリカ国防省から軍事研究を委託いたくされていた、研究者の間の科学研究の情報のネットワークであったわけですが、もともとの参加者である科学者にとっては、インターネットを経済的な目的に使うのは抵抗ていこうがあるようです。【3】科学者の集団というのは、少なくとも建て前の上では、信用なるものによって結ばれている世界なのです。科学者がおたがいに論文を交換こうかんする、あるいは科学情報や技術情報を交換こうかんするとき、それは同じ科学コミュニティの一員としておたがいの名前を認めあっているからです。【4】たとえ個人的に名前を知らない場合でも、博士号を持っていたり、名のある研究機関に属している人間であれば同じです。そこでは、まさに名前というものが重要な役割を果たす信用のネットワークが築かれる。【5】そして、その名前が重要な役割を果たす世界とは、贈与ぞうよ交換こうかんの世界なのです。たとえば、古代ギリシアのホメロスの叙事詩じょじしのなかに出てくる英雄えいゆうたちは、他人から贈与ぞうよを受けたら、自らの名誉めいよを守るために、つまり自分の名前の信用を守るために、必ず贈与ぞうよをした人間に対して返礼をする。【6】ここでは、まさにおたがいの名前に対する信用が人間と人間との交換こうかんを可能にしている。贈らおく れるモノそのものに価値があるから返礼するのではなく、贈っおく た人間と贈らおく れた人間との間の一種の信用関係を保つためにモノが交換こうかんされるのです。
3. 【7】昨年、あるコンピュータ・サイエンスの会合に呼ばれて講演をしたときに出会った何人かの人たちは、コンピュータ・コミュニケーションの世界に資本主義的な要素が入り込んはい こ でくるのをなるべく排除はいじょしようとしていました。【8】それは、いうなれば、それを原初における贈与ぞうよ交換こうかんの世界のままに保ちたいという必死の抵抗ていこうでしょう。その極端きょくたんな例が、ソフトウェアを全部タダにしようと、それをネットを通じてタダでばらまこうという動きです。【9】コピーレフトですね。あれはインターネットから資本主義の原理を排除はいじょして、∵なるべく古き良き贈与ぞうよ交換こうかんの世界に留めておこうという動きだと思います。
4. 【0】これがインターネットのなかで働いている一方の力ですが、しかし不幸にして、もう一方の力が厳として存在しており、それはいうまでもなく資本主義化への動きなのです。そして、コピーレフトに全面的に対抗たいこうする手段となるのが暗号化の技術です。インターネット上の情報を暗号化すると、その情報の内容はまさに秘密キーを持っている人間だけしか知ることができなくなる。つまり、ここに所有権が確保され、その所有権をもとにした商品交換こうかんが可能になるというわけです。
5. いまインターネットを舞台ぶたいにして、この二つの力が争っているんだと思います。幸か不幸か、私は経済学者ですから、資本主義化への動きというものがいかに強いものであるかを良く知っています。そして、さらに不幸なことに、じつは贈与ぞうよ交換こうかん維持いじしようとしている動きには自己矛盾むじゅんがはらまれている。なぜならば、インターネットとは、原則としてすべての人が自由に参加できることを前提にしているわけですが、おたがいの間の信用を基礎きそにして成立する贈与ぞうよ交換こうかんの世界とは、まさにそれが何らかの意味で閉じていることを必要とするのです。たとえば、科学的な情報や知識が、贈与ぞうよ的な原理によってインターネット上をタダで自由に行き来していくと、それがだれでも参加できるインターネット上であるが故に、それを欲しがる人間を増やしてしまい、そのなかにはもちろん信用のない人間も当然含まふく れますから、自らの基盤きばんである信用に基づくコミュニティを破壊はかいしてしまうことになる。インターネットがこれだけ拡大してしまうと、今度は、贈与ぞうよ的な世界を維持いじしようとする人びとは、インターネットから離れはな た小さなネットワークを作ったり、あるいはもっと皮肉なことに、自分たちのかたきである暗号システムを使ってインターネット上に閉じたコミュニティを作ることになるかもしれない。

6. (岩井いわい克人かつとインタヴュー 上野俊哉としや)『インターネット資本主義と貨幣かへい』より抜粋ばっすい、調整)