長文集  9月2週  ★後世から振り返ったとき(感)  nnzi-09-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】後世から振り返ったとき、大山鳴動
の「オウム」事件は、どんな意味をもって見
えるだろうか。追及されている疑惑が実証さ
れて、犯罪史上の一大事件として想起される
か。【2】あるいは手段と規模が特異なだけ
で、本質的には平凡な凶悪事件として語られ
ているだろうか。なにしろ狂信的な閉鎖集団
も、目的なき犯罪も、浄化のための民族抹殺
も、歴史には多くの先例があるからである。
 【3】だが一つだけ、この教団が明白に特
異な点は、それが工業社会の漫画のような組
織であり、裏腹に、宗教の持つ芸術的な表現
力を完全に欠如した集団だということである

 【4】神域に工場群が林立し、自称によれ
ば、農業の生産性を工業なみにあげる農薬が
製造されている。信徒の悟りもヘッドギアと
薬物で機械的に増産され、医師の手で効率よ
く管理される。【5】組織には正大師、正悟
()師など企業顔負けの地位序列が用意さ 
れ、お布施の営業成績をあげれば出世が保証
される。弁護士の威勢がいいのも工業社会の
特色だろうし、幹部に工、医、法学部が目立
って、文学部の影が薄いのは象徴的である。
 【6】一方、この教団には通例の豪華な神
殿がなく、修行場は粗末なバラックだし、都
心の本部は凡庸な事務所ビルである。とくに
神像が発泡スチロール製で、工場の目隠しに
使われていたというのは宗教史上の珍事だろ
う。【7】制服の無趣味はよいとして、儀式
の演出の稚拙は目を覆うばかり、歌や踊りは
幼児なみである。当 然、この教団には大衆
的な祭典がなく、花火もマスゲームも護摩供
養もない。かつて総選挙に出た幹部の仮面踊
りなど、演劇的には「感情異化効果」の極致
に達していた。
 【8】要するに、この教団は初期工業時代
の遺物にほかならず、ポスト工業社会の感性
に欠けているのだが、おそらくそのこと自 
体、現代社会心理の病弊を体現しているので
ある。
 【9】近代とは、個人にとっては業績達成
の時代であり、財と地位による自己実現の時
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代であった。万人が「何者か」になりうるは
ずだ∵と教えられ、できなければ世の中が悪
いのだと扇動される時代であった。【0】こ
れはもちろんきれい事の嘘であるから、民衆
は構造的に不満に駆られるのであるが、しか
し、企業組織が確立すると事態はややましに
なった。企業には人事評価の公平な基準があ
ると信じられたし、人は身近の顔見知りと競
争して、互いの実力を見る機会が持てた。他
人との具体的な比較によって、己の「分を知
り」、勝敗を納得することができたのである

 不幸なのは、昨今この企業が人の意識のう
えで小さくなり、個人が海のような大衆社会
にじかに触れ始めたことであった。脱サラや
フリーターが流行し、休日が増え寿命が延び
、人が企業外で生きる時間が多くなった。若
者を中心に企業への帰属感が弱まり、評価基
準への信頼も薄まり、その分だけ消費による
自己実現と、流行という匿名世界への参加の
機会が増えた。誰もが自由になる半面、分を
知ることが難しくなり、顔の見えない他人と
自分を比較して、限度のない自己実現を迫ら
れる程度が増したのである。(中略)
 だとすれば問題の抜本解決法は、自己実現
社会の転換であり、達成への脅迫からの解放
だろうが、それには近代のもう一つの原理で
ある、自己「表現」を奨励する以外にはある
まい。表現は実現と違って、財や地位の量的
な尺度で計られず、魅力を理解する親しい他
人の目があれば足りる。それは閉鎖的な階層
組織ではなく、相互に顔の見える柔らかな社
交の集団を作り、人はその小世界で認められ
ることで、「何者か」であることができる。
例えば、黒人ゴスペルのあの熱烈な合唱を聴
いた人なら、人に表現があるかぎり、どんな
宗教的熱狂も必ずしも暴力を生まないことを
知るであろう。

(朝日新聞「論壇」1995より引用)