長文 9.2週
1. 【1】後世から振り返っふ かえ たとき、大山鳴動の「オウム」事件は、どんな意味をもって見えるだろうか。追及ついきゅうされている疑惑ぎわくが実証されて、犯罪史上の一大事件として想起されるか。【2】あるいは手段と規模が特異なだけで、本質的には平凡へいぼん凶悪きょうあく事件として語られているだろうか。なにしろ狂信きょうしん的な閉鎖へいさ集団も、目的なき犯罪も、浄化じょうかのための民族抹殺まっさつも、歴史には多くの先例があるからである。
2. 【3】だが一つだけ、この教団が明白に特異な点は、それが工業社会の漫画まんがのような組織であり、裏腹に、宗教の持つ芸術的な表現力を完全に欠如けつじょした集団だということである。
3. 【4】神域に工場群が林立し、自称じしょうによれば、農業の生産性を工業なみにあげる農薬が製造されている。信徒の悟りさと もヘッドギアと薬物で機械的に増産され、医師の手で効率よく管理される。【5】組織には正大師、正師など企業きぎょう顔負けの地位序列が用意され、お布施 ふせの営業成績をあげれば出世が保証される。弁護士の威勢いせいがいいのも工業社会の特色だろうし、幹部に工、医、法学部が目立って、文学部のかげ薄いうす のは象徴しょうちょう的である。
4. 【6】一方、この教団には通例の豪華ごうか神殿しんでんがなく、修行場は粗末そまつなバラックだし、都心の本部は凡庸ぼんような事務所ビルである。とくに神像が発泡スチロールはっぽう     製で、工場の目隠しめかく に使われていたというのは宗教史上の珍事ちんじだろう。【7】制服の無趣味むしゅみはよいとして、儀式ぎしきの演出の稚拙ちせつは目を覆うおお ばかり、歌や踊りおど は幼児なみである。当然、この教団には大衆的な祭典がなく、花火もマスゲームも護摩ごま供養もない。かつて総選挙に出た幹部の仮面踊りおど など、演劇的には「感情異化効果」の極致きょくちに達していた。
5. 【8】要するに、この教団は初期工業時代の遺物にほかならず、ポスト工業社会の感性に欠けているのだが、おそらくそのこと自体、現代社会心理の病弊びょうへいを体現しているのである。
6. 【9】近代とは、個人にとっては業績達成の時代であり、財と地位による自己実現の時代であった。万人が「何者か」になりうるはずだ∵と教えられ、できなければ世の中が悪いのだと扇動せんどうされる時代であった。【0】これはもちろんきれい事のうそであるから、民衆は構造的に不満に駆らか れるのであるが、しかし、企業きぎょう組織が確立すると事態はややましになった。企業きぎょうには人事評価の公平な基準があると信じられたし、人は身近の顔見知りと競争して、互いたが の実力を見る機会が持てた。他人との具体的な比較ひかくによって、己の「分を知り」、勝敗を納得することができたのである。
7. 不幸なのは、昨今この企業きぎょうが人の意識のうえで小さくなり、個人が海のような大衆社会にじかに触れふ 始めたことであった。脱サラだつ  やフリーターが流行し、休日が増え寿命じゅみょうが延び、人が企業きぎょう外で生きる時間が多くなった。若者を中心に企業きぎょうへの帰属感が弱まり、評価基準への信頼しんらい薄まりうす  、その分だけ消費による自己実現と、流行という匿名とくめい世界への参加の機会が増えた。だれもが自由になる半面、分を知ることが難しくなり、顔の見えない他人と自分を比較ひかくして、限度のない自己実現を迫らせま れる程度が増したのである。(中略)
8. だとすれば問題の抜本ばっぽん解決法は、自己実現社会の転換てんかんであり、達成への脅迫きょうはくからの解放だろうが、それには近代のもう一つの原理である、自己「表現」を奨励しょうれいする以外にはあるまい。表現は実現と違っちが て、財や地位の量的な尺度で計られず、魅力みりょくを理解する親しい他人の目があれば足りる。それは閉鎖へいさ的な階層組織ではなく、相互そうごに顔の見える柔らかやわ  な社交の集団を作り、人はその小世界で認められることで、「何者か」であることができる。例えば、黒人ゴスペルのあの熱烈ねつれつな合唱を聴いき た人なら、人に表現があるかぎり、どんな宗教的熱狂ねっきょうも必ずしも暴力を生まないことを知るであろう。

9.(朝日新聞「論壇ろんだん」1995より引用)