長文集  9月4週  ○生成という時  nnzi-09-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/06/09 09:57:09
 生成という時、死滅を反対概念として排除
するかと思われるが、「おのずから」の中核
的意味内容としての生成は、死をつつみこえ
るものとしての生成である。元和年間(一六
一五―二四)に書かれた『見聞愚案記』に、
「世話に、自然(じねん)と呉音に云(い)
へば自然天地の様に心得、自然(しぜん)と
漢音に云(い)へば、若(もし)の様に心得
るなり」とあるという。特に中世において顕
著であるが、自然はジネンと訓まれる時、今
日一般にいう自然・必然の意となり、シゼン
と訓(よ)まれる時、偶然・万一の意となっ
たことが知られる。このように、「おのずか
ら」も自然も、一見、相反する二義を持って
いた。特に「シゼンの事」が万一の最たる死
そのものを意味することもあったことが注目
される。
 どうしてこのような相反する二義を「おの
ずから」・自然がもつことになったかが問題
であるが、人間にとって死のような不慮な事
態も、あるいは偶然と思われる事態も、高い
次元に立つ時、成り行きとして当然のことと
して受けとめられるという理解があったから
ではないかと思われる。高い次元に立つとは
、宇宙的地平に立つことではないであろうか
。宇宙的地平に立つ時には、人間に万一・偶
然として受けとられる事態も、当然の成り行
きと受けとられる事態と何ら変るものではな
く、したがって一つの「おのずから」、一つ
の自然に統括しうると理解されたのではない
だろうか。
 たとえば、世阿弥の脇能『養老』に次のよ
うな詞(ことば)がある。「それ行く川の流
れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
流れに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結んで
、久しく澄める色とかや。」いうまでもなく
これは鴨長明の『方丈記』冒頭の文をうけ 
て、これを云(い)わば逆転させたものであ
る。後半を長明は「淀みに浮ぶうたかたは、
かつ消えかつ結びて、久しくとゞまりたる例
なし」と仏教的な無常観を語っていた。しか
し、同じ『方丈記』の「不知。生れ死ぬる人
、何方より来たりて、何方へか去る」などと
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ともに、ここには日本人のより一般的な実存
感覚が示されているので∵はないであろうか
。だが、ここで云(い)いたいのは、世阿弥
が、その実存感覚をつつみこえ、これを「久
しく澄める色とかや」と無窮の流れを謡って
いることである。うたかたの浮沈をつつみこ
える無窮の流れが語られている。それは人間
の死をこえる宇宙の無窮の生成を思うもので
あろう。「何方より来たりて、何方へか去 
る」も、『養老』においては、無窮の生成か
ら成り来たり、生成そのものへ帰することに
なるであろう。「おのずから」や自然の二義
性も、このような事例によれば納得しうるで
あろう。
 宇宙を無窮の生成とみるが故に、人間は万
一の事態を、また死を「あきらめ」ることが
できた。「あきらめ」は、日本人の伝統的な
死生観の最も根源をなすものであるが、それ
がこのように「おのずから」としての自然観
によってはじめて可能であったことは注目さ
れる。ここに云(い)う「あきらめ」は、今
日、日常的な場で云(い)われる消極的なも
のではなく、それなりに精神的な緊張の高い
「あきらめ」である。武士が強調し、その行
動性の精神的な心構えとした覚悟も、この「
あきらめ」をふまえたものである。
「あきらめ」は、己れの願望、広くはこの世
の生の肯定をふくんでいる。肯定しつつもな
おそれを思い切るのがまさに「あきらめ」で
ある。ところで日本人は、時に現実主義的な
人間であると云(い)われる。しかしまた、
日本人ほど生に恬淡であり死に親近感をもつ
ものはないと云(い)われる。この相い反す
るような二つの指摘も「おのずから」の生成
という宇宙観をもってくることによって統一
的に理解される。それは、この世の生は無窮
の生成より成り現われたものであり、この世
の生に生きること自体が無窮の生成の一齣に
生きることであったからである。ここから現
実肯定的な姿勢が生れた。しかしまた、死は
無窮の生成そのものに帰することであり、生
の終りを悲しみつつもなお「あきらめ」うる
ものであった。

(相良亨()「「おのずから」としての自然
」(一九八七年)による)