ジンチョウゲ2 の山 8 月 1 週 (5)
★渓流に糸をたれた釣人の(感)   池新  
 【1】渓流に糸をたれた釣人(つりびと)のすがたを見ると、変な連想だけれども、ぼくはいつもじぶんの張った網でじっと獲物のかかるのを待っている蜘蛛のすがたを思い出してしまう。たんに、獲物を待っているすがたが似ている、というのではないのである。【2】釣りをしている人間が自然とのあいだにつくりあげようとしている一つの「関係」のようなものが、蜘蛛が網をとおして蝿とのあいだにつくりあげようとしている「関係」と、とてもよく似ているとぼくは思うのだ。
 【3】蜘蛛は蝿とはちがったやりかたでまわりの世界を見、知覚し、その世界のなかを動きまわり食べながら、生きている。蜘蛛と蝿は生物としての構造が違う。【4】だからそれぞれは、それぞれのちがったやりかたで自然の世界を生きている。ちょっと気どって記号論風に言えば、ふたつの生物は異質なコードをとおして、まわりの自然と交流しあっているのだ。【5】だから、もしも蜘蛛が空中に張りわたしたあの網さえなければ、蜘蛛と蝿とはおたがいのあいだになんの関係もつくりあげることのないまま、おなじ空間のなかの違う世界を棲みわけつづけることもできただろう(なにしろ、ふたつの生物は別種のコードをとおして、おなじ空間を別のもののように知覚しているのだから)。【6】ところが、ここに網がある。蜘蛛が長い生物進化のなかでつむぎだしてくるのに成功した網がある。この網が異質なコードのあいだの接続を実現してしまうのだ。蝿は網にかかる。この瞬間に蝿はいやおうなく、別種の生物である蜘蛛のコードをうけいれざるをえなくなるのである。【7】またそれと同時に、蜘蛛のほうも蝿のコードをうけいれる準備をととのえておかなければならなかったはずだ。もし蜘蛛が蝿の生物学的なコードをまったく無視していたりすれば、蜘蛛の張った網はいつまでもむなしく風のそよぎばかりをうけとめていなければならないだろうから。
 【8】捕食という生物の現象のなかには、いつもこういう「コード横断(transcodage)」がおこっている。つまり、ひとつ∵の生物が別の生物に出会い、異質なコードどうしが接触する場所に、生物界のもっとも感動的な瞬間が発生するのである。【9】「自然はひとつの音楽だ」と言われるときの「音楽」は、じつはこの瞬間のことをとらえた言い方なのである。たがいに異質なコードどうしが接触しあい、おたがいのあいだに横断がおこったとき、そこにはリズムが、メロディーが発生する。【0】雨が植物の葉っぱをうつ。そこに音楽が生まれる。だがこのとき葉は雨のコードを受け入れてしなり、雨は植物を受けとめて落下の方向を変化させていく。ここでも同じ現象がおこっている。生物が別の生物を待ちうけておたがいのあいだに決定的な接触の状態をつくりだそうとするときと、おなじ「コード横断」の現象がおきている。
 釣人(つりびと)が渓流に釣糸をたれているとき、そこにおこっているのも、まったくおなじ「コード横断」の現象だ、とぼくは思うのだ。人間はこのとき釣竿をとおして水のなかの生物界と関係をつくろうとしている。(中略)
 釣りのもっとも感動的で魅力的な瞬間は、この「コード横断」のおこるカタストロフィの瞬間なのだろう、とぼくは思う。その瞬間に「人間─釣竿─糸─餌(針)─魚」という、それをひとまとめにしてみると、まったく奇妙な混合生物ができあがっている。このとき、人間もふつうの生活のときとは微妙にちがう生物に変貌している。彼は細心の注意をはらって、からだの動きや感情や知覚をコントロールして、じぶんの生物的コードの一部分を、魚のそれとの接触と横断が可能になるような状態に変化させておかなくてはならないからである。釣人(つりびと)はこのとき魚の生物コードの一部分をじぶんのなかにとりいれている。人間が水中に入りこんで乱暴に魚を手づかみにするときにはこういう微妙な変化はおこっていない。

(中沢 新一『蜜の流れる博士』)