1. 【1】
遊戯上のこの経験の
核心の部分に
影絵のように映っている「実物」は一体何か。すなわち
隠れん坊の主題は何であるのか。
窪田富男氏が訳業の労をとられたG・ロダーリの
指摘に従って
端的に言うならば、この
遊戯的経験の
芯に写っているものは「迷い子の経験」なのであり、【2】自分独りだけが
隔離された
孤独の経験なのであり、社会から追放された
流刑の経験なのであり、たった一人でさまよわねばならない
彷徨の経験なのであり、人の住む社会の境を
越えた所に広がっている
荒涼たる「森」や「海」を目当ても方角も分らぬままに何かのために行かねばならぬ旅の経験なのである。【3】そして、そういう追放された
彷徨の旅の世界が短い
瞑目の後に
突然訪れて来るところに、ある朝
眠りから
醒めると
到来しているかもしれない日常的予想をはるかに
超えた出来事の想像がその
影を落している。(中略)
2. 【4】しかし他方、
隠れん坊が模型化している一連の深刻な経験は、実際の事実世界における経験そのものから写し取ったものではない。それは「実物」でも「原物」でもなく、
既に「おとぎ話」固有のある構図の中で物語られ
昇華されている経験からの写しであった。【5】ここで私たちは、もう
既に、「
孤独な森の旅」や「追放された
彷徨」や、そして一定の「
眠り」の後に起こる「異変」や「別世界の事」どもを、子供に向って物語っている様々な「おとぎ話」や「昔話」の数々を想い起こしているはずである。【6】先程来述べられたような「試練」や「他界の経過」を経て、日常的予想を
超えた在るべき結末(たとえば
結婚)に
到達することによって社会の中に改めて再生する物語は、決して
唯一つの表現形式に限られてはいないのだけれども、しかしその主題を子供の世界で展開するものは「おとぎ話」一つなのである。
3. 【7】しかも
隠れん坊とおとぎ話におけるその主題の消化の仕方は絶対的な軽さを持っている。主題は先に挙げた一連の基本的経験であったがその深刻な経験の質料から来る重圧感はここにはない。【8】
煩雑な細密
描写を全て
削ぎ取って明快簡潔に構図(構造というよ∵り構図)を
描き出すおとぎ話固有の方法が、経験の重量を消去してそのエキスを血清のように
抽き出しているからでもあったが、【9】それと同時にそのおとぎ話を台本とする寸劇が言葉の使用を
徹底的に
取り払うことによって、
玩具的に簡略な
即物性を倍加させたからでもあった。【0】経験はここでは
粘着的個性から解放されている。こうしておとぎ話が主題として語る経験は寸劇化されることによって一層重苦しさから解き放たれたエキスとなって、知らず識らずの間に血清として子供の心身の底深くに
注ぎ込まれ
蓄積されていく。将来訪れるであろう経験に対する
胎盤がこのようにして
抗体反応を起こすことなく形成されるのであった。
4. こうして見ると、家のすぐ外の路地で
隠れん坊が行なわれていることがいかなる意味を持つかがいくらか分って来るはずである。家の中で聞いたおとぎ話の主題は(あるいは部屋の中で読んだおとぎ話の主題は)、
隠れん坊に
翻案して遊ぶことによって、「聞く」こと(あるいはそれに加えて「読む」こと)と「演ずる」こと、という次元を異にした二つの通路を通して心身の
奥深くに受け入れられる。話を聞く際に受け取る
抑揚や
韻律の知覚、読む場合に自生的に起こる知的想像、無言演劇への
翻案を通して
滲み
込む身体感官的な感得、それらが一体となって統合的に主題が消化されるのである。
5. 経験が、前頭葉だけのものでなく身体だけのものでもなく感情だけのものでもなくて、心身全体の行う物事との
交渉である限り、心身一体の
胎盤が備わっていないところには経験の育つ余地はまずないと言ってよい。そういうところでは、経験となるべき場合においてさえ、そこから一回きりの
衝撃体験だけを受け取ることになるであろう。だとすれば、おとぎ話と
隠れん坊、話と
遊戯の統合的対応が失われている状態を放置することは取りも直さず経験の
消滅を
促進することにほかならないであろう。
6.(
藤田省三『精神史的考察』による)