長文 9.3週
1. 【1】近代以前の伝統社会では、こんにちのような青年期はなかった。母のもとで暮らしていた子供は、ある年齢ねんれいに達すると母親のもとから切り離さき はな れて、いくばくかの集団的な訓練をうける。【2】そして彼らかれ は、子供としては死んで・大人として再生することを象徴しょうちょうする、特別の儀式ぎしき(通過儀礼ぎれい)に参加する。この儀式ぎしきを終えると、彼らかれ は、そのまま大人として、共同体の成員になる。
2. 【3】しかし、近代化とともに、社会は複雑になり、社会の成員となるために身につけねばならない技能・知識は、しだいに膨大ぼうだいになってきた。それらを習得するには、長い時間が必要になる。【4】こうして、「もはや子供ではなく、さりとて未だ大人でもない」過渡期かときが長くなる。あいかわらず親に養育されていて、労働・納税・兵役の義務を免れまぬか ている、という意味で、未だ大人ではない。【5】しかし、家庭とべつのところで、大人になるための技能・知識を身につけるよう、訓練をうけている、という意味で、もはや子供ではない。こうしたどっちつかずの「境界人」という不安定な時期が、「青年期」なのである。
3. 【6】しかし、「社会的な役割を表わす言葉による自己確認」という意味での「アイデンティティ」の確立が、青年期の課題とされるようになったとき、その背景には、出自と役割の分離ぶんりという、近代化のもう一つの姿がある。【7】近代以前の伝統社会では、出自(生まれ)によって、役割は自動的に決まった。小作農の家に生まれれば、自分もそのまま小作農という役割を引き継ぎひ つ 、商人の家に生まれれば、そのまま商人という役割を引き継ぐひ つ 。【8】このように生まれによって、引き受ける役割も決まる。伝統社会では、そうであった。しかし近代化とともに、職業の選択せんたくは個人の自由となり、宗教の選択せんたくも、政治的立場の選択せんたくも、個人の自由に委ねられるようになる。出自と、引き受けるべき役割が、切り離さき はな れたのである。
4. 【9】こうなると青年期は、大人として必要な技能・知識を身につけるだけではすまなくなる。【0】自分は、どの役割をどう引き受けるのか。社会的な役割を表わす言葉を、どう組み合わせて、自分を定義するのか。農民らしく、それとも職人らしく、……教徒らしく、それとも……、国民らしく、それとも……。どのような「らしさ」を、どのように組み合わせて、「これが自分だ」と名乗って出るのか?∵ 青年期とは、こうした選択せんたく迫らせま れる時期となったのである。
5. 簡単におさらいする。近代化とともに、社会的な役割を習得するための訓練期間が長くなったこと。社会的な役割の選択せんたくが、出自を問わず、個人の自由に委ねられるようになったこと。この二つが合わさって、個人の人生に「青年期」という段階が生まれ、「社会的な役割を表わす言葉による自己定義」が、青年期の課題となったのである。
6. 現代社会は、近代化された社会である。したがって、いま見たような「アイデンティティの確立」が青年期の課題であることに変わりはない。学歴・職業・宗教・国籍こくせき・政治的立場のみならず、「男である・女である」という述語も、いまや生物としての性別から切断され、自由に選択せんたくされる役割を表わすようになる。これもまた、役割と出自の切断という、近代化の延長線上の事象である。
7. しかし現代は、近代の延長だけでもない。近代の延長線上にありながら、近代の枠組みわくぐ が、確実に、ゆるみ・崩れくず はじめてもいる。それとともに、アイデンティティの問題も、少しずつズレはじめている。近代のアイデンティティ概念がいねんは、いっさいから自由な個人、という観念を前提としていた。出自を問われることも(あるいは、すら)なく、自分の意のままに、自由に役割を選択せんたくする、自由な個人……。しかし、いまや、そのようにいっさいのきずなを切って自由になったことが、一人の・取り替えが のきかない個人であるということの土台をヒタヒタと侵食しんしょくしつつある。

8.(大庭健『私という迷宮』より)