長文集  10月4週  ○子供の頃、習字の練習は  nnzu-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 14:56:04
 子供の頃、習字の練習は半紙という紙の上
で行った。黒い墨で白い半紙の上に未成熟な
文字を果てしなく発露し続ける、その反復が
文字を書くトレーニングであった。取り返し
のつかないつたない結末を紙の上に顕し続け
る呵責の念が上達のエネルギーとなる。練習
用の半紙といえども、白い紙である。そこに
自分のつたない行為の痕跡を残し続けていく
。紙がもったいないというよりも、白い紙に
消し去れない過失を累積していく様を把握し
続けることが、おのずと推敲という美意識を
加速させるのである。この、推敲という意識
をいざなう推進力のようなものが、紙を中心
としたひとつの文化を作り上げてきたのでは
ないかと思うのである。もしも、無限の過失
をなんの代償もなく受け入れ続けてくれるメ
ディアがあったとしたならば、推すか敲くか
を逡巡する心理は生まれてこないかもしれな
い。
 現代はインターネットという新たな思考経
路が生まれた。ネットというメディアは一見
、個人のつぶやきの集積のようにも見える。
しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前
提にした個の集積の向こう側に、皆が共有で
きる総合知のようなものに手を伸ばすことの
ように思われる。つまりネットを介してひと
りひとりが考えるという発想を超えて、世界
の人々が同時に考えるというような状況が生
まれつつある。かつては、百科事典のような
厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個
々のパートは専門家としての個の書き手がこ
れを担ってきた。しかし現在では、あらゆる
人々が加筆訂正できる百科事典のようなもの
がネットの中を動いている。間違いやいたず
ら、思い違いや表現の不的確さは、世界中の
人々の眼に常にさらされている。印刷物を間
違いなく世に送り出す時の意識とは異なるプ
レッシャー、良識も悪意も、嘲笑も尊敬も、
揶揄も批評も一緒にした興味と関心が生み出
す知の圧力によって、情報はある意味で無限
に更新を繰り返しているのだ。無数の人々の
眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に
限りなく接近し、寄り添い続けるだろう。断
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定しない言説に真偽がつけられないように、
その情報はあら∵ゆる評価を回避しながら、
文体を持たないニュートラルな言葉で知の平
均値を示し続けるのである。明らかに、推敲
がもたらす質とは異なる、新たな知の基準が
ここに生まれようとしている。
 しかしながら、無限の更新を続ける情報に
は「清書」や「仕上がる」というような価値
観や美意識が存在しない。無限に更新され続
ける巨大な情報のうねりが、知の圧力として
情報にプレッシャーを与え続けている状況で
は、情報は常に途上であり終わりがない。
 一方、紙の上に乗るということは、黒いイ
ンクなり墨なりを付着させるという、後戻り
できない状況へ乗り出し、完結した情報を成
就させる仕上げへの跳躍を意味する。白い紙
の上に決然と明確な表現を屹立させること。
不可逆性を伴うがゆえに、達成には感動が生
まれる。またそこには切り口の鮮やかさが発
現する。その営みは、書や絵画、詩歌、音楽
演奏、舞踊、武道のようなものに顕著に現れ
ている。手の誤り、身体のぶれ、鍛錬の未熟
さを超克し、失敗への危険に臆することなく
潔く発せられる表現の強さが、感動の根源と
なり、諸芸術の感覚を鍛える暗黙の基礎とな
ってきた。音楽や舞踊における「本番」とい
う時間は、真っ白な紙と同様の意味をなす。

 (原研哉『白』による)