長文 11.1週
1. 【1】言語記号を用いるという人間独自の能力は、あたかもつばさをはばたいて空中を飛ぶ鳥類の能力と同じように、人間の住む環境かんきょう世界のイメージを他の動物のそれとは比べようもないほど拡大することになる。【2】現在生存しているイヌやネコは、三百年以前の江戸えどの街のイメージ、ましてや五万年以前の原人がどのような生活をしていたかのイメージをもつことができない。しかし、人間にはそれができる。【3】そのイメージは、時代や場所や人によって異なるかもしれないが、どのようなばあいでもイメージそのものはもつことができる。これは人間の知覚での意識、すなわち眼や耳のような感覚器官で知覚し分かっている環境かんきょうの風景が、【4】現に知覚されているものの意識から、現に知覚されていないが、かつて一度知覚されたものの記憶きおく、想像による過去や未来のイメージの意識にまで――言語活動を通じての――拡大延長された例である。
2. 【5】このような風景の意識の拡張に基づいて、人間の心の他の働き、例えば感情や情緒じょうちょの働きも拡張される。人間でも他の動物でも、自分が手に入れた食物が他の動物に奪わうば れたときに生じるであろう感情は同じであり、種の維持いじのために行なう性行動の瞬間しゅんかんの感情も同じようなものであろう。【6】しかし日々の食物は一応不足なく食べてはいるが、社会が経済不況ふきょうになり雇用こようが悪化し失業の恐れおそ からくる生活の不安とか、人間の生態系の悪化に伴っともな て将来起こるであろう人類の滅亡めつぼうという観念が、【7】ある人びとに与えあた た未来へのユートピアを奪わうば れた希望のない終末への不安のような複雑な感情、あるいは日本の文学的な表現のある様式に伴うともな 「わび」とか「さび」といった情緒じょうちょは、言語表現の能力をもたない他の動物には起こりようのない感情情緒じょうちょの人間独特な言語による拡張であろう。
3. 【8】また人間以外の動物でも、例えば必要とする食物が多いか少ないかの違いちが は判断でき、獲物えものを追いかけて行動するとき、その獲物えものがどのように行動するかを前もって推理することはできるだろう。【9】――しかし、この多いか少ないかを数記号(言語記号と同じである)を用いて四倍多いとか、一・五倍多い、などという算数的計算はできないし、また推論を現に眼の前で起こっている出来事のなかで行なうことから離れはな 一般いっぱん的、形式的に表現することはできない。【0】∵これができる人間の心の働きは、言語記号あるいは数記号を用いる事ができるようになった大脳の拡大された働きに応じて、大脳の感情や情緒じょうちょを生じさせる部分が適応的に働くようになったことから生じる、心の拡張された部分の働きである。(中略)
4. 人間の心の一部には他の動物の心とは違うちが 部分がある。それは言語である。このことは別に新しいことではなくて、だれでも知っていることに過ぎない。しかし重要なのは、このだれでもが知っている現在の事実を宇宙全体の進化のなかでどのように位置づけるかという、いわゆる「宇宙における人間の地位」と従来よくいわれてきた哲学てつがく上の問題としてこの事実を改めて見なおすことである。(中略)
5. 人間の言語は遺伝子と同じように(否それ以上に)この宇宙の進化のなかで新しいものをつくり出すという宇宙的効果をもっているということができる。その意味で私は人間の言語を、遺伝子と同じ系列の、より進んだ力として語伝子という、私自身が創った用語で表現した。力が物質となり、物質から遺伝子をもった生物が生じ、この生物のなかから人間の語伝子による文化を生じた。これは、宇宙の進化のなかの大きな三つの段階の最後の(少なくとも現在までは)段階というべきだろう。「言語をもつ」ということを宇宙の進化のなかでこのように位置づけることができると思う。最近、宇宙論学者のなかでいわれている人間原理の意味をこのような文脈のなかで、より拡大して物理学から人間諸科学へとつなぐ橋とすることができるのではないだろうか。