長文集  11月4週  ○徳川家康自身は  nnzu-11-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 15:08:17
 徳川家康自身は、戦国武将の常として、漢
詩文の読み書きはできなかった。しかし彼は
、「漢文の力」をよく理解していた。
 家康が「漢文の力」を実感した最初の契機
は、一五七二年の三方ケ原の合戦であった。
若き日の家康は、「孫子の兵法」に精通した
武田信玄と交戦し、生涯最大の大敗を喫した
。武田家の滅亡後、家康は武田家の遺臣を多
く召し抱え、信玄の兵法や軍略を研究させ 
た。
 (中略)
 日本史上、「漢文の力」を活用して日本人
の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と
徳川家康の二人であった。
 江戸時代は、王朝時代に次ぐ日本漢文の二
番目の黄金時代であった。江戸期の漢文文化
の特徴としては、
(一)漢文訓読の技術が、一般に公開された
こと
(二)史上空前の、漢籍の出版ブームが起き
たこと
(三)武士と百姓町人の上層部である中流実
務階級が、漢文を学んだこと
(四)俳句や小説、落語、演劇などの文化に
も、漢文が大きな影響を与えたこと
(五)漢文が「生産財としての教養」となっ
たこと
 などがあげられる。
 室町時代まで、漢文訓読の方法、例えば訓
点の打ちかたは、平安時代以来の学者の家の
秘伝とされていた。訓点が一般に公開され、
われわれが見慣れている「レ点」「一二点」
「送り仮名」などの訓点を施した漢籍が広く
出版されるようになったのは、江戸時代から
であった。
 (中略)
 日本に来た朝鮮通信使は、日本側の文人と
漢詩の応酬をした。これは国威をかけた文の
戦いでもあった。初期のころは、日本側が作
る漢詩のレベルは低かった。あとになると日
本側の漢詩のレベルが急速に向上したため、
朝鮮側も一流の漢詩人を選んで日本に送るよ
うになった。
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 例えば、新井白石は、幕府に仕える漢学者
として、朝鮮通信使∵と礼をめぐって激しい
論争をかわした。朝鮮側は、論争は別とし 
て、白石の漢詩を高く評価した。白石のほう
も、自分の漢詩集の序文を朝鮮通信使に書い
てもらうなど、彼らの文学的能力に対して深
い敬意を払った。政治では対立しても、文化
では友好をつらぬく、という態度が、日朝双
方に見られたことは、興味深い。
 戦国時代まで野蛮だった武士は、江戸時代
の漢文ブームによっ て、朝鮮や中国の士大
夫階級とわたりあえる文化的教養人になっ 
た。
 日本に渡ってきた朝鮮通信使は、華夷(か
い)思想の立場から、日本固有の文化や風俗
を低く見る傾向があった。そんな彼らさえ、
日本の出版業の盛んなこと、とくに漢籍の出
版物の豊富さと値段の安さには、驚きの目を
見張った。
 (中略)
 江戸末期には、下級武士のみならず、ヤク
ザの親分や農民までもが漢文を学んだ。当時
の漢字文化圏のなかで、このような中流実務
階級が育っていたのは、日本だけである。日
本がいちはやく近代化に成功できた理由も、
ここにあった。
 中国でも、医者だった孫文のような中級実
務階級は存在したが、彼らの力は士大夫階級
より弱く、そのため中国の辛亥(しんがい)
革命(一九一一)は日本の明治維新より半世
紀も遅れた。
 もし、初代将軍・徳川家康が儒学を幕府の
官学にするという構想をもたなかったら。も
し、日本に漢文訓読というユニークな文化が
なかったとしたら――。
 日本の近代化は、もっと困難な道をたどっ
ていたに違いない。

 (加藤徹氏の文章に基づく)