長文 11.4週
1. 徳川家康自身は、戦国武将の常として、漢詩文の読み書きはできなかった。しかしかれは、「漢文の力」をよく理解していた。
2. 家康が「漢文の力」を実感した最初の契機けいきは、一五七二年の三方ケ原の合戦であった。若き日の家康は、「孫子の兵法」に精通した武田信玄しんげんと交戦し、生涯しょうがい最大の大敗を喫しきっ た。武田家の滅亡めつぼう後、家康は武田家の遺臣を多く召し抱えめ かか 信玄しんげんの兵法や軍略を研究させた。
3. (中略)
4. 日本史上、「漢文の力」を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と徳川家康の二人であった。
5. 江戸えど時代は、王朝時代に次ぐ日本漢文の二番目の黄金時代であった。江戸えど期の漢文文化の特徴とくちょうとしては、
6.(一)漢文訓読の技術が、一般いっぱんに公開されたこと
7.(二)史上空前の、漢籍かんせきの出版ブームが起きたこと
8.(三)武士と百姓ひゃくしょう町人の上層部である中流実務階級が、漢文を学んだこと
9.(四)俳句や小説、落語、演劇などの文化にも、漢文が大きな影響えいきょう与えあた たこと
10.(五)漢文が「生産財としての教養」となったこと
11. などがあげられる。
12. 室町時代まで、漢文訓読の方法、例えば訓点の打ちかたは、平安時代以来の学者の家の秘伝とされていた。訓点が一般いっぱんに公開され、われわれが見慣れている「レ点」「一二点」「送り仮名」などの訓点を施しほどこ 漢籍かんせきが広く出版されるようになったのは、江戸えど時代からであった。
13. (中略)
14. 日本に来た朝鮮ちょうせん通信使は、日本側の文人と漢詩の応酬おうしゅうをした。これは国威こくいをかけた文の戦いでもあった。初期のころは、日本側が作る漢詩のレベルは低かった。あとになると日本側の漢詩のレベルが急速に向上したため、朝鮮ちょうせん側も一流の漢詩人を選んで日本に送るようになった。
15. 例えば、新井あらい白石は、幕府に仕える漢学者として、朝鮮ちょうせん通信使∵と礼をめぐって激しい論争をかわした。朝鮮ちょうせん側は、論争は別として、白石の漢詩を高く評価した。白石のほうも、自分の漢詩集の序文を朝鮮ちょうせん通信使に書いてもらうなど、彼らかれ の文学的能力に対して深い敬意を払っはら た。政治では対立しても、文化では友好をつらぬく、という態度が、日朝双方そうほうに見られたことは、興味深い。
16. 戦国時代まで野蛮やばんだった武士は、江戸えど時代の漢文ブームによって、朝鮮ちょうせんや中国の士大夫階級とわたりあえる文化的教養人になった。
17. 日本に渡っわた てきた朝鮮ちょうせん通信使は、華夷かい思想の立場から、日本固有の文化や風俗ふうぞくを低く見る傾向けいこうがあった。そんな彼らかれ さえ、日本の出版業の盛んなこと、とくに漢籍かんせきの出版物の豊富さと値段の安さには、驚きおどろ の目を見張った。
18. (中略)
19. 江戸えど末期には、下級武士のみならず、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ。当時の漢字文化けんのなかで、このような中流実務階級が育っていたのは、日本だけである。日本がいちはやく近代化に成功できた理由も、ここにあった。
20. 中国でも、医者だった孫文のような中級実務階級は存在したが、彼らかれ の力は士大夫階級より弱く、そのため中国の辛亥しんがい革命(一九一一)は日本の明治維新めいじいしんより半世紀も遅れおく た。
21. もし、初代将軍・徳川家康が儒学じゅがくを幕府の官学にするという構想をもたなかったら。もし、日本に漢文訓読というユニークな文化がなかったとしたら――。
22. 日本の近代化は、もっと困難な道をたどっていたに違いちが ない。

23. (加藤かとうとおる氏の文章に基づく)