長文集  12月1週  ★われわれが日常(感)  nnzu-12-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】われわれが日常しばしば経験する事
実として、次のようなものがある。われわれ
が本を貸した場合に、借りた人が用ずみの後
直ちに自発的に返してこないことが少なくな
い。それは、どのような意識によって裏づけ
られているのであろうか。【2】その意識 
は、次の事実から推測され得るように思われ
る。すなわち、そのような場合に貸した人が
本の返還を要求するしかたが、はなはだ特色
的である。【3】私は何回か外人から本を借
りたことがあるが、返還がおくれると、貸し
た人(外人)は、きわめて「事務的」に、「
先日あなたに貸した何々の本は、もし用ずみ
なら返してもらいた い」と言ってくる。【
4】われわれ日本人――少なくとも、私の知
っている範囲の、私と同じくらいの年齢の人
々――は、こういうふうに言うことに抵抗を
感じ、若干悪びれて口実をもうけ言いわけを
して(たとえば、「僕の友達であの本を見た
いという者があるのだが。……」というふう
に)でないと、返してもらいたいとは言えな
い。【5】あたかも貸主のこのような行動の
しかたに対応するかのごとく、借主は、用ず
みの後に直ちに返さないことについて何ら罪
の意識をもたないのが普通であり、むしろ、
返還の要求があるまで返さないでもっている
のが当たりまえででもあるかのごとくであ 
り、むしろ、返還の要求をうけても、悪びれ
ることもなく、また言いわけをすることもな
いのが普通のようである。【6】私自身、本
を貸してそのまま返してもらえないままにな
っている例は決して少なくない。極端な例と
しては、こんな経験がある。私は学生から或
(あ)る本を貸してくれとたのまれ、快く貸
したところ、二年ばかりたっても返してくれ
ないので催促した。【7】彼はその本の各所
にペンや鉛筆ですじをひいたままで、何の悪
びれるところもなく返してきたのである。【
8】……私の所有物である本を他人に貸した
ときは、私の現実支配の事実が終ったことに
よって、その本に対する私の所有権は弱いも
のになり、これに対応してその反面で、借主
があらたにはじめた現実支配の事実は、私の
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所有権から独立した一種の正当性をもちはじ
め、だんだん所有権に近いものになってくる
ように思われるのである。
 【9】このような例は無数につづくが、最
近までも減ることなく新聞をにぎわしている
問題としていわゆる役得という現象がある。
役得というのは、或(あ)る地位についてい
ることによって得られる利益で、∵しかも公
式には承認されていないもの、を指すことば
である。【0】役得には種々のものがあるが
、ここでの問題に関係があるものとしては、
他人の財産の管理にあたる者が、その管理財
産で私的に飲食ないし宴会をしたり旅行に行
ったりする場合をあげることができる。もち
ろん、その管理者がその地位にもとづく職務
として他人を接待する必要があって、管理財
産で飲食ないし宴会をしたり温泉に行ったり
することは、正当である。しかし、その範囲
をこえて私的な目的でそのような行為をする
ことは、民事上は他人の財産に対する侵害で
あり、刑事上は「他人ノ為()メ其事務ヲ処
理スル者自己若クハ第三者ノ利益ヲ図り又ハ
本人二損害ヲ加フル目的ヲ以テ其任務二背キ
タル行為ヲ為()シ本人ニ財産上()ノ損害
ヲ加エタルトキ」(刑法二四七条)というの
に該当して背任罪となるのである。会社の重
役が会社の費用で、自分の私宅を建築或いは
修理したり、私宅用の美術品を買入れたり…
…して、会社の財産状態を悪化させ、取引先
ないし債権者ひいては経済界一般に大きな迷
惑をかけた話が、最近の新聞の紙面をにぎわ
せたが、会社財産の実質上の所有者である株
主に迷惑をかけたという最も重要なことが、
新聞では必ずしも大きく取りあげられていな
いように思われる。(中略)いちばん面白い
のは、第二次大戦中、「公物と思う心が既に
敵」という標語が郵便局の壁にはってあった
、という事実である。民法の所有権の考え方
を前提するなら、「公物」――国民個人の所
有物でなくて「公け」すなわち政府や府県市
町村の所有物――と思うことは、それを国民
個人の私的利益のために使ってはならない(
他人の所有権を侵害してはならない)という
ことを意味するはずであるのに、この標語は
逆に、公物と思うだけで「既に敵」だと言う
のである。言うまでもなくその理由は、「公
物」だと思うとむだに使う、という傾向があ
るからで、「むだ使いは敵だ」という戦争中
の標語を特に「他人の所有物」たる公物につ
いて言ったまでのことである。
 (川島武宜()「日本人の法意識」より)