長文集  12月4週  ○普通に日本的性格  nnzu-12-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 15:13:36
 普通に日本的性格、従って日本文化の特色
として挙げられることは、日本人の同化力に
基づいて外来文化を受容し集大成して文化が
複質性または重層性を示してゐるといふので
ある。なるほどそれも一つの特色として挙げ
られるかも知れない。しかしどこの国の文化
をとつて見ても外来文化の影響を受けてゐな
いところはなく、そしてまた大抵の場合には
それを同化して独自の文化を発展させそして
複質的または重層的文化を形成してゐるので
ある。また仮にそれが日本文化の特色である
としてもそれは単に形式的な原理であつて、
日本文化の内容そのものを具体的に捉へてゐ
るものではない。それならば何がいつたい日
本的性格であるか。何がいつたい日本文化の
内容上の特色であるか。日本的性格又は日本
文化にはどういふ諸契機が見られるか。それ
をはつきり捉へることは甚だ困難なことであ
るが、一つの試みを提出するのも必ずしも無
意義ではなからうと思ふ。大体に於いて日本
的性格、従つて日本文化に三つの主要な契機
が見られるやうに私は思ふ。自然、意気、諦
念の三つである。
 その三つは互ひにどういふ関係に立つてゐ
るか。先づ外面的には自然、意気、諦念の三
つは神、儒、仏の三教にほぼ該当してゐると
云(い)ふやうにも見ることができる。従つ
て発生的見地からは神道の自然主義が質料と
なつて儒教的な理想主義と仏教的な非現実主
義とに形相化されたと云(い)ふやうにも考
へられる。さうしてそこに神儒仏三教の融合
を基礎として国民精神が涵養され日本文化の
特色を発揮したと見られるのである。
 今、質料とか形相とか云(い)つたが、こ
の二つを内面的関連に於いて見ることが必要
である。形相といふものは外部から質料に加
へられるといふ様なものではない。質料の中
にもともと形相が潜んでゐてそれがおのづか
ら発展し自己創造して行くと共に自己に適合
したものを外部から摂取するのである。理想
主義のあらはれの意気といふことと、非現実
主義のあらはれの諦念といふこととは外来的
な文化によつてはじめて新たに付け加へられ
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た性質ではなく、既に神道の自然主義の中に
萌芽として含まれてゐたものが次第次第に明
瞭にあらはれて来て、それと同時に外来的で
はあるが自己に適合した要∵素として儒教や
仏教の契機をも摂取し同化したのであると考
ふべきである。
 (中略)
 以上に於いて、自然といふ質料の中に意気
とか諦念とかいふ形相が内的におのづから含
まれてゐてそれが次第にあらはに大きく成長
して来る可能性が見られたと思ふ。自然主義
からおのづから理想主義や非現実主義が発展
して来るのである。理想主義や非現実主義を
外来的のものとして大和民族の本来性と相容
れないやうに考へる機械的歴史観に賛意を表
するわけには私はゆかぬ。然るになほここに
問題が残されてゐる。それは意気と諦念とは
果たして相容れるものであらうかといふこと
である。意気とは武士道に於いて見られる自
力精進の精神である。諦念は他力本願の宗教
の本質をなしてゐる。この両者は果たして相
容れるであらうか。一体、気節のために動く
意気は動の方面である。物に動じない諦念は
静の方面である。そして動の中に静があり、
静の中に動があるといふ可能性が見られる限
り意気と諦念との結合の可能性も目撃されな
ければならぬ。武士道でも命に安んずるとい
ふことを云(い)ふ。武士道が死を顧みない
といふ裏面には死をあつさり諦めてゐるとい
ふ知見が窺(うかが)はれる。一般に死への
存在といふやうなものは諦念を基礎に有つた
意気といふ形で明瞭にあらはれてゐる。死は
生を殺すものではな い。死が生を本当の意
味で生かしてゐるのである。無力と超力とは
唯一不二のものとなつてゐる。諦念は意気の
中に見られる否定的契機として欠くことので
きないものである。意気と諦念とは互ひに相
容れないやうなものではなく、むしろ両者は
相関的に成立するものである。

 (九鬼周造「日本的性格について」(一九
三七年)による)