1.
普通に日本的性格、従って日本文化の特色として挙げられることは、日本人の同化力に基づいて外来文化を受容し集大成して文化が複質性または重層性を示してゐるといふのである。なるほどそれも一つの特色として挙げられるかも知れない。しかしどこの国の文化をとつて見ても外来文化の
影響を受けてゐないところはなく、そしてまた
大抵の場合にはそれを同化して独自の文化を発展させそして複質的または重層的文化を形成してゐるのである。また仮にそれが日本文化の特色であるとしてもそれは単に形式的な原理であつて、日本文化の内容そのものを具体的に
捉へてゐるものではない。それならば何がいつたい日本的性格であるか。何がいつたい日本文化の内容上の特色であるか。日本的性格
又は日本文化にはどういふ諸
契機が見られるか。それをはつきり
捉へることは
甚だ困難なことであるが、一つの試みを提出するのも必ずしも無意義ではなからうと思ふ。大体に
於いて日本的性格、従つて日本文化に三つの主要な
契機が見られるやうに私は思ふ。自然、意気、
諦念の三つである。
2. その三つは
互ひにどういふ関係に立つてゐるか。先づ外面的には自然、意気、
諦念の三つは神、
儒、仏の三教にほぼ
該当してゐると
云ふやうにも見ることができる。従つて発生的見地からは神道の自然主義が質料となつて
儒教的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたと
云ふやうにも考へられる。さうしてそこに神
儒仏三教の
融合を
基礎として国民精神が
涵養され日本文化の特色を発揮したと見られるのである。
3. 今、質料とか形相とか
云つたが、この二つを内面的関連に
於いて見ることが必要である。形相といふものは外部から質料に加へられるといふ様なものではない。質料の中にもともと形相が
潜んでゐてそれがおのづから発展し自己創造して行くと共に自己に適合したものを外部から
摂取するのである。理想主義のあらはれの意気といふことと、非現実主義のあらはれの
諦念といふこととは外来的な文化によつてはじめて新たに付け加へられた性質ではなく、
既に神道の自然主義の中に
萌芽として
含まれてゐたものが次第次第に
明瞭にあらはれて来て、それと同時に外来的ではあるが自己に適合した要∵素として
儒教や仏教の
契機をも
摂取し同化したのであると考ふべきである。
4. (中略)
5. 以上に
於いて、自然といふ質料の中に意気とか
諦念とかいふ形相が内的におのづから
含まれてゐてそれが次第にあらはに大きく成長して来る可能性が見られたと思ふ。自然主義からおのづから理想主義や非現実主義が発展して来るのである。理想主義や非現実主義を外来的のものとして大和民族の本来性と相容れないやうに考へる機械的歴史観に賛意を表するわけには私はゆかぬ。然るになほここに問題が残されてゐる。それは意気と
諦念とは果たして相容れるものであらうかといふことである。意気とは武士道に
於いて見られる自力精進の精神である。
諦念は他力本願の宗教の本質をなしてゐる。この両者は果たして相容れるであらうか。一体、気節のために動く意気は動の方面である。物に動じない
諦念は静の方面である。そして動の中に静があり、静の中に動があるといふ可能性が見られる限り意気と
諦念との結合の可能性も
目撃されなければならぬ。武士道でも命に安んずるといふことを
云ふ。武士道が死を
顧みないといふ裏面には死をあつさり
諦めてゐるといふ知見が
窺はれる。
一般に死への存在といふやうなものは
諦念を
基礎に有つた意気といふ形で
明瞭にあらはれてゐる。死は生を殺すものではない。死が生を本当の意味で生かしてゐるのである。無力と
超力とは
唯一不二のものとなつてゐる。
諦念は意気の中に見られる否定的
契機として欠くことのできないものである。意気と
諦念とは
互ひに相容れないやうなものではなく、むしろ両者は相関的に成立するものである。
6. (
九鬼周造「日本的性格について」(一九三七年)による)