a 長文 10.1週 nnzu
 十倍もの今川軍の接近に直面した信長には、篭城ろうじょう降伏こうふくかという二つの方法が選択肢せんたくしできた。しかし、信長の目指したものは、あくまでも勝利だった。勝利の一点を見つめたことが、おけ狭間はざまでの奇襲きしゅうという新しい活路を見出したのだ。世界の歴史を切り開いてきたのは、用意された方法で問題をうまく解決した人ではなく、問題そのものに深く直面した人だった。では、私たちもまた、安易な方法への誘惑ゆうわく拒否きょひして、問題に直面して生きるためにはどうしたらよいのだろうか。
 第一は、マニュアルに頼るたよ 心を捨てることだ。昔の修行は、師の技を盗むぬす ものだった。今は、手っ取り早くマニュアルを学ぶことが、教える側にも教わる側にも求められる。その根底には、問題には必ず一定の答えがあるものだという前提がある。だから、困ったことがあると、然るべき人にどうしたらよいかを聞くことになる。本当は、困ったことに対して、効率のよい解決を見つけようとする前に、その問題にしみじみと困ることが必要なのではないか。その人にしかできないような深い悩みなや 方こそ、その人にしかできない解決への第一歩だ。
 第二は、解決に近づくことに価値があるのではなく、問題と格闘かくとうすることに価値があるのだと発想の転換てんかんをすることである。もし解決だけが尊いのであれば、物まねでもカンニングでも解決すればよいことになる。しかし、世の中には解決を拒むこば 問題も多い。親鸞しんらんは、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」と言った。イエスは、「罪のない者だけが石を投げよ」と言った。ここにあるのは、教科書的な解決方法ではなく、その問題を深く生きた人にしか語れない真実の言葉だ。だからこそ、これらの言葉は時代を越えこ て私たちの心を動かす。どんな人間の心の中にも悪が存在するということは、方法によっては解決することのできない人間の本質だ。だからこそ、必要なのは解決なのではなく、問題の共有なのだ。
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 確かに、方法は、科学技術の発展に役立ち、生活の改善に役立つ。分数の割り算はひっくり返してかけるという方法を教わらなければ、多くの小学生が長い時間分数を割ることの意味について頭を悩まさなや  なければならないだろう。だから、問題が真に把握はあくできていないとしても、とりあえず解決の方法があるということは、日常生活にとって役に立つ。しかし、その発想を人生そのものにあてはめようとすれば、それは人間の生活というよりもむしろ機械のメンテナンスに近いものになるだろう。人間の生活は、方法からではなく目的からとらえたとき初めて生きたものになるのである。

(言葉の森長文作成委員会 Σ)
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a 長文 10.2週 nnzu
 (回収された牛乳パックからトイレットペーパーが作られるさまざまな工程を説明して)このような苦労の末に牛乳パックからつくられたトイレットペーパーが、最近では売れなくなってきたという問題が起こっています。実際、M製紙でも、未使用の牛乳パックが山積みになっていました。なぜ売れないかというと木からつくった「ヴァージンパルプ」を使ったトイレットペーパーのほうが値段が安いからです。(中略)市民団体のみなさんは、「せっかく回収した牛乳パックが使われないのでは困る。なんとかたくさん使ってもらわないと」と言って、市役所や小学校のトイレットペーパーを牛乳パックからつくったものに替えか て下さいとお願いする運動をしています。パック入りの牛乳をどんどん買って、どんどん回収して、それからつくったトイレットペーパーをどんどん使おうという運動をしているのです。
 ここでもう一度、質問したいと思います。「なぜ牛乳パックをリサイクルするのですか?」
 牛乳パックをリサイクルさせることは、「ゴミを減らすため」にはなっているのですが、「環境かんきょうを守るため」にはなっていません。パック入りの牛乳をどんどん買ってどうするのでしょうか。アメリカやカナダの動物や自然のことは何も考えていないのでしょうか。(中略)
 環境かんきょうを守るため」にと牛乳パックからはがきを作っている市民団体があります。(中略)
 この市民団体は、このはがきをつくるためにミキサーを10台以上こわしてしまったそうです。それに、ドライヤーを数十分使う電気量はどうでしょうか。電気の多くは火力発電所でつくられます。火力発電のエネルギーは石油です。石油を燃やして排ガスはい  を出して電気をつくっているのです。これもりっぱな大気汚染おせんです。ミキサーを使うための電気も同じです。(中略)
 牛乳パックのリサイクルはすばらしいことです。ただ、ここでぼくが言いたいのは、地球にやさしくするために、自分にやさしくするために、そして友達や家族みんなにやさしくするために、さらにもう一歩進んでみようということなのです。
 
 (伊藤吉徳間違いまちが だらけのリサイクル」)
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a 長文 10.3週 nnzu
 高校進学率が六〇%を超えるこ  のが昭和三六年。昭和四九年には九〇%を超えるこ  。大学進学率が二〇%を超えるこ  のが昭和四四年。昭和四八年には三二%になる。大衆受験社会は昭和四〇年代後半にはじまった。週刊誌が大学合格者高校別一覧や受験関係の記事を頻繁ひんぱんに登場させるようになるのが昭和四〇年代である。
 この間の進学率の上昇じょうしょうによって親は子弟を少しでもよりよい学校に入学させようとする。教師も進学先のない子どもがでないようにしなければならないという教育的配慮はいりょを働かせる。となると、入れる学校を確実にみきわめねばならない。生徒の相対的学力査定――偏差へんさ値が必要になる。ところが、確実に入学できる学校を探すためにいったん偏差へんさ値がつかわれると、それまで曖昧あいまいだった学校ランクが明確になり、固定化する。教師が指導する学校には必ず入学できることになるが、その反面、それまで曖昧あいまいだった学校序列が偏差へんさ値によって、明確な学校ランクとなる。
 こうして昭和四〇年代後半以後に「輪切り」といわれる学校の総序列化が急速に進んだ。職業高校が普通ふつう高校の序列の下に組み込まく こ れはじめるのもこのころからである。昭和五〇年には「高校入試に跋扈ばっこする偏差へんさ値」のような偏差へんさ値バッシング記事が登場するようになる。
 学校が総序列化すると、受験競争への焚きつけた   は、学歴社会や立身出世物語などの外部に帰属させることなく、受験社会内部で自己生産することができるようになる。学校ランクや偏差へんさ値ランクがそれ自体として競争の報酬ほうしゅうになり意味の根拠こんきょとなってしまうからである。偏差へんさ値五十一と五十六の僅差きんさの学校ランクが将来の昇進しょうしんや賃金に持ち越さも こ れるわけではない。にもかかわらず、偏差へんさ値やわずかな学校ランクが受験競争の誘因ゆういんになってしまう。
 しかも、すべての学校がランク化つまり総序列化状態におかれれば、事態は一部の人々の間のエリート校をめぐっての競争にとどまらなくなる。平均学力の生徒も、相対的上位校をめざしての競争に焚きつけた   られる。
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生徒は模擬もぎ試験などによって偏差へんさ値五十五と知らされたとき、偏差へんさ値六十八とされる学校への志願はあきらめるだろう。しかし頑張れがんば 偏差へんさ値六〇の学校に進学できるのではないか、というようにかえって焚きつけた   られる。(中略)
 したがって、受験競争はすべての人を巻き込みま こ 熾烈しれつになる。しかし、失敗感や挫折ざせつ感はすくないというパラドクシカルな状態になる。というのは、大衆受験社会においては、模擬もぎ試験や受験情報で自分の学力の相対的位置を早いときから知らされている。高望みしているわけではない。はじめからほどほどのところがめざされている。大きな目標もないかわりに大きな挫折ざせつもないのである。そもそも偏差へんさ値受験体制は成功と失敗が断続的ではなく傾斜けいしゃ的である。上をみれば失敗であり下をみれば成功である。
 また背後に立身出世や学歴社会のような大きな物語があるわけではないから受験に失敗することは立身出世物語の成就や失敗ではない。せいぜいがいまより頑張れがんば ば就職のときに多少有利かもしれないという「景品」程度である。受験の成功や失敗によって心の傷を残し青少年の人間形成に影響えいきょうをあたえるといったことははるかにすくなくなったのである。(中略)
 大衆受験社会とは、受験がシステム化された社会である。受験が一回かぎりのものではなく、中学校受験、高校受験、大学受験というように何回もある状態をいう。しかも学校が総序列化されたなかでこういう競争がおこなわれると、目標と競争への焚きつけた   は主体の欲望からではなく、受験社会のほうからやってくる。(中略)
 欲望は受験システムからやってくる。受験システムの外部にある個人の野心や欲望は回収され空白化する。だから大衆受験社会におかれた受験生は、「なぜか(自分でもわからないうちに)受験競争にそれなりに頑張っがんば てしまう」ということにもなる。大衆受験社会はシステムに飼育された(空虚くうきょな)主体の製造工場である。
 
 (竹内洋「立身出世主義」)
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a 長文 10.4週 nnzu
 子供のころ、習字の練習は半紙という紙の上で行った。黒いすみで白い半紙の上に未成熟な文字を果てしなく発露はつろし続ける、その反復が文字を書くトレーニングであった。取り返しのつかないつたない結末を紙の上に顕しあらわ 続ける呵責かしゃくの念が上達のエネルギーとなる。練習用の半紙といえども、白い紙である。そこに自分のつたない行為こうい痕跡こんせきを残し続けていく。紙がもったいないというよりも、白い紙に消し去れない過失を累積るいせきしていく様を把握はあくし続けることが、おのずと推敲すいこうという美意識を加速させるのである。この、推敲すいこうという意識をいざなう推進力のようなものが、紙を中心としたひとつの文化を作り上げてきたのではないかと思うのである。もしも、無限の過失をなんの代償だいしょうもなく受け入れ続けてくれるメディアがあったとしたならば、推すか敲くたた かを逡巡しゅんじゅんする心理は生まれてこないかもしれない。
 現代はインターネットという新たな思考経路が生まれた。ネットというメディアは一見、個人のつぶやきの集積のようにも見える。しかし、ネットの本質はむしろ、不完全を前提にした個の集積の向こう側に、みなが共有できる総合知のようなものに手を伸ばすの  ことのように思われる。つまりネットを介しかい てひとりひとりが考えるという発想を超えこ て、世界の人々が同時に考えるというような状況じょうきょうが生まれつつある。かつては、百科事典のような厳密さの問われる情報の体系を編むにも、個々のパートは専門家としての個の書き手がこれを担ってきた。しかし現在では、あらゆる人々が加筆訂正ていせいできる百科事典のようなものがネットの中を動いている。間違いまちが やいたずら、思い違いおも ちが や表現の不的確さは、世界中の人々の眼に常にさらされている。印刷物を間違いまちが なく世に送り出す時の意識とは異なるプレッシャー、良識も悪意も、嘲笑ちょうしょうも尊敬も、揶揄やゆも批評も一緒いっしょにした興味と関心が生み出す知の圧力によって、情報はある意味で無限に更新こうしん繰り返しく かえ ているのだ。無数の人々の眼にさらされ続ける情報は、変化する現実に限りなく接近し、寄り添いよ そ 続けるだろう。断定しない言説に真偽しんぎがつけられないように、その情報はあら
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ゆる評価を回避かいひしながら、文体を持たないニュートラルな言葉で知の平均値を示し続けるのである。明らかに、推敲すいこうがもたらす質とは異なる、新たな知の基準がここに生まれようとしている。
 しかしながら、無限の更新こうしんを続ける情報には「清書」や「仕上がる」というような価値観や美意識が存在しない。無限に更新こうしんされ続ける巨大きょだいな情報のうねりが、知の圧力として情報にプレッシャーを与えあた 続けている状況じょうきょうでは、情報は常に途上とじょうであり終わりがない。
 一方、紙の上に乗るということは、黒いインクなりすみなりを付着させるという、後戻りあともど できない状況じょうきょうへ乗り出し、完結した情報を成就させる仕上げへの跳躍ちょうやくを意味する。白い紙の上に決然と明確な表現を屹立きつりつさせること。不可逆性を伴うともな がゆえに、達成には感動が生まれる。またそこには切り口の鮮やかあざ  さが発現する。その営みは、書や絵画、詩歌、音楽演奏、舞踊ぶよう、武道のようなものに顕著けんちょに現れている。手の誤り、身体のぶれ、鍛錬たんれんの未熟さを超克ちょうこくし、失敗への危険に臆するおく  ことなく潔く発せられる表現の強さが、感動の根源となり、諸芸術の感覚を鍛えるきた  暗黙あんもく基礎きそとなってきた。音楽や舞踊ぶようにおける「本番」という時間は、真っ白な紙と同様の意味をなす。

 (原研『白』による)
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a 長文 11.1週 nnzu
 言語記号を用いるという人間独自の能力は、あたかもつばさをはばたいて空中を飛ぶ鳥類の能力と同じように、人間の住む環境かんきょう世界のイメージを他の動物のそれとは比べようもないほど拡大することになる。現在生存しているイヌやネコは、三百年以前の江戸えどの街のイメージ、ましてや五万年以前の原人がどのような生活をしていたかのイメージをもつことができない。しかし、人間にはそれができる。そのイメージは、時代や場所や人によって異なるかもしれないが、どのようなばあいでもイメージそのものはもつことができる。これは人間の知覚での意識、すなわち眼や耳のような感覚器官で知覚し分かっている環境かんきょうの風景が、現に知覚されているものの意識から、現に知覚されていないが、かつて一度知覚されたものの記憶きおく、想像による過去や未来のイメージの意識にまで――言語活動を通じての――拡大延長された例である。
 このような風景の意識の拡張に基づいて、人間の心の他の働き、例えば感情や情緒じょうちょの働きも拡張される。人間でも他の動物でも、自分が手に入れた食物が他の動物に奪わうば れたときに生じるであろう感情は同じであり、種の維持いじのために行なう性行動の瞬間しゅんかんの感情も同じようなものであろう。しかし日々の食物は一応不足なく食べてはいるが、社会が経済不況ふきょうになり雇用こようが悪化し失業の恐れおそ からくる生活の不安とか、人間の生態系の悪化に伴っともな て将来起こるであろう人類の滅亡めつぼうという観念が、ある人びとに与えあた た未来へのユートピアを奪わうば れた希望のない終末への不安のような複雑な感情、あるいは日本の文学的な表現のある様式に伴うともな 「わび」とか「さび」といった情緒じょうちょは、言語表現の能力をもたない他の動物には起こりようのない感情情緒じょうちょの人間独特な言語による拡張であろう。
 また人間以外の動物でも、例えば必要とする食物が多いか少ないかの違いちが は判断でき、獲物えものを追いかけて行動するとき、その獲物えものがどのように行動するかを前もって推理することはできるだろう。――しかし、この多いか少ないかを数記号(言語記号と同じである)を用いて四倍多いとか、一・五倍多い、などという算数的計算はできないし、また推論を現に眼の前で起こっている出来事のなかで行なうことから離れはな 一般いっぱん的、形式的に表現することはできない。
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これができる人間の心の働きは、言語記号あるいは数記号を用いる事ができるようになった大脳の拡大された働きに応じて、大脳の感情や情緒じょうちょを生じさせる部分が適応的に働くようになったことから生じる、心の拡張された部分の働きである。(中略)
 人間の心の一部には他の動物の心とは違うちが 部分がある。それは言語である。このことは別に新しいことではなくて、だれでも知っていることに過ぎない。しかし重要なのは、このだれでもが知っている現在の事実を宇宙全体の進化のなかでどのように位置づけるかという、いわゆる「宇宙における人間の地位」と従来よくいわれてきた哲学てつがく上の問題としてこの事実を改めて見なおすことである。(中略)
 人間の言語は遺伝子と同じように(否それ以上に)この宇宙の進化のなかで新しいものをつくり出すという宇宙的効果をもっているということができる。その意味で私は人間の言語を、遺伝子と同じ系列の、より進んだ力として語伝子という、私自身が創った用語で表現した。力が物質となり、物質から遺伝子をもった生物が生じ、この生物のなかから人間の語伝子による文化を生じた。これは、宇宙の進化のなかの大きな三つの段階の最後の(少なくとも現在までは)段階というべきだろう。「言語をもつ」ということを宇宙の進化のなかでこのように位置づけることができると思う。最近、宇宙論学者のなかでいわれている人間原理の意味をこのような文脈のなかで、より拡大して物理学から人間諸科学へとつなぐ橋とすることができるのではないだろうか。
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a 長文 11.2週 nnzu
 歴史家の専門の仕事というものは、それを歴史家がどう理解するにせよ、たんに人間だけでなく、この地球上のあらゆる生命に本来的にそなわった限界や欠陥けっかんの一つたる一種の自己中心性を是正ぜせいしようとする一つの試みだといえるのである。歴史家がその専門的な見解に到達とうたつするためには、なによりもまず、みずからも一人の人間として免れるまぬか  ことのできないこの自己中心的な観点から、意識的に、また意図的に、その視角をそらそうとつとめなければならないのである。
 自己中心性の地上の生において果す役割はいわば両面価値的なものである。一方では、自己中心性はあきらかに現世の生の本質をなすものと考えられる。生あるものは、たとえささやかな付随ふずい的なものにせよ、事実この宇宙を構成する一片の分子だと定義することもできるのであって、しかもそれが、部分的にせよ他のものから解放され、さらにこの宇宙の他のものをじぶんの利己的な目的に添わせるそ   ように、あらん限りの努力をはらう一個の自律的な力として独立しているというような一種の「はなれわざ」を演じているものだとも考えられるのである。つまり、それぞれの生あるものはみな競ってみずからを宇宙の中心たらしめんとしているのであり、その際、他のあらゆる生あるものと、またこの宇宙そのものと、さらにこの宇宙を創造し維持いじしている万能の力――このつかの間の現象下にひそむ実在にほかならない万能の力――とも張り合おうとしているのだということになるのである。このような自己中心性は、すべて生あるものの存在に欠くべからざるものであるために、その生活の必要条件の一つとなっているのであるが、もしかりに完全に自己中心性を放棄ほうきするということにでもなれば、(たとえそれが生そのものの消滅しょうめつを意味することにはならないにしても)およそ生あるいかなるものも、まさにこの時、この場所において生をいとなむためのあの媒介ばいかい手段をも、同時に完全に喪失そうしつすることになるであろう。そしてこのような心理的な真実への洞察どうさつが、仏教の知的な出発点となっているのである。
 このように、自己中心性は生の一つの必要条件なのであるが、しかしこの必要条件は、同時にまた一つの罪でもあるのである。つまり自己中心性は、この世に生をうけたいかなるものも実は一つとして宇宙の中心たりえないものだとしてみれば、知的にも一つの誤りであり、またみずからが宇宙の中心ででもあるかのように行動で
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きる権利など、なに一つとしてもつものがないとしてみれば、それは道徳的にも誤りなのである。およそ生あるいかなるものも、おなじ仲間たる造物にしろ、また宇宙にしろ神もしくは実在にしろ、まるでそれらが一個の自己中心的な造物の要求にこたえるためにのみ存在してでもいるかのようにこれをみなしていい権利などすこしももたないはずなのである。このような誤った信念をもち、これにもとづいた行動をすることは、(これをギリシアの心理学の言葉に従えば)倨傲きょごうの罪と呼ばれるもので、この倨傲きょごうとは、(生の悲劇がキリスト教の神話のなかにあらわれているのに従えば)大魔王まおうサタンがみずから奈落ならくるにいたったあの法外な、罪深い、自殺的な驕慢きょうまんにほかならないのである。
 このように自己中心性が生の必要条件であるばかりでなく、同時に因果応報を伴うともな 一つの罪でもあるとしてみると、すべて生あるものは、終生ぬけさることのできない窮境きゅうきょうにおちいっていることになる。生あるものが、その生命を維持いじすることができるのも、ただそれが自己主張のあげくの自殺をも、また自己放棄ほうきからくる安楽死をも、ともにどうにかして避けるさ  ことができる限りにおいてであり、またその間においてのみなのである。この中道は、剃刀かみそりのように狭いせま 道で、そこを通ってゆく旅人は、その道の両側の二つの深淵しんえんへとひかれる力によって、たえず極度の緊張きんちょうを感じつつ、用心深く平均を保ちつづけなければならないのである。
 生あるものにその自己中心性の課している問題は、それゆえ生死の問題となるのであり、それはあらゆる人間がたえずつきまとわれている問題なのである。歴史家のものの見方にしても、この恐るべきおそ   挑戦ちょうせんに応えようとして人間が心に装ういくつかの道具のなかの一つにほかならないのである。
 
 (A・J・トインビー「歴史家の宗教観」)
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a 長文 11.3週 nnzu
 クリントンの税制案はお決まりの言いまわしで修飾しゅうしょくされていた。いわく、「金持ちは富みすぎ、貧しい人は貧しすぎる」、「彼らかれ は不相応な報酬ほうしゅうを得ている」、「それこそ公平というもの」云々うんぬん
 政治家がこのような言いまわしを使うのは、それを望む選挙民がいるからにほかならない。おそらく、政治家にそのような言い方をしてもらうことで、隣人りんじんの働きをあてにするうしろめたさが少しは軽くなるからではないか。自分が貪欲どんよくな人間と見られるよりは、隣人りんじんはしぼり取られて当然と見せかけておくほうが、たしかに気は楽だ。
 ここでのキーワードは「見せかけ」である。つまり、所得再分配といえば聞こえはいいが、実際には、そのようなレトリックを本気で信じる人などいないということである。所得再分配は、ときにより、ある人たちをごまかすためのレトリックとして使うことはできる。人によっては、それでいい場合があるからだ。しかし、それをいついかなる場合でも信じるという人はいないし、ときにそれでよしとする人も、じつは心底から信じているわけではない。本気で信じるには、所得再分配はあまりにもおかしな話なのだ。
 なぜここまで断言できるかというとむすめを持った経験からである。むすめを公園で遊ばせていて、私はなるほどと思った。公園では親たちが自分の子どもにいろいろなことを言って聞かせている。だが、ほかの子がおもちゃをたくさん持っているからといって、それを取り上げて遊びなさいと言っているのを聞いたことはない。一人の子どもがほかの子どもたちよりおもちゃをたくさん持っていたら、「政府」をつくって、それを取り上げることを投票で決めようなどと言った親もいない。
 もちろん、親は子どもにたいして、譲りゆず あいが大切なことを言って聞かせ、利己的な行動は恥ずかしいは    という感覚を持たせようとする。ほかの子が自分勝手なことをしたら、うちの子も腕ずくうで  でというのは論外で、普通ふつうはなんらかの対応をするように教える。たとえば、おだてる、交渉こうしょうをする、仲間はずれにするのもよい。だが、どう間違っまちが ても盗んぬす ではいけない、と。まして、あなたの盗みぬす かたを持つような道徳的権威けんいをそなえた合法政府といったもの
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は存在しない。いかなる憲法、いかなる議会、いかなる民主的な手段も、またこのほかのいかなる制度といえども、そのような道徳的権威けんいをそなえた政府をつくることはできない。なぜなら、そのようなものはこの世に存在しないからである。
 数年前、むすめのケーリーと彼女かのじょの友だちのアリックスも連れて夕食に出かけたことがある。二人ともたしか六さいのときだったと思う。デザートとして、いまアイスクリームを注文するか、あとで風船ガムを買ってもらうか、ということになった。アリックスはアイスクリーム、ケーリーは風船ガムを選択せんたくした(これから親になる人に。デザートを安くあげたければ、風船ガムもまたデザートであることを早期教育によって認識させよう)。
 アリックスがアイスクリームを食べ終わるのを待って、ケーリーのガムを買いに出た。ケーリーは念願のガムにありついたが、アリックスには当然のことガムはない。アリックスは、そんなのずるいと言って泣き出した。第三者のおとなから見れぱ、アリックスに正当性がないのは明らかだった。彼女かのじょにはケーリーとまったく同じ選択せんたくの機会が与えあた られ、先に楽しみを味わったにすぎない。
 これと同じ問題はおとなの世界でも起きる。ポールとピーターは青年時代に同じ機会を与えあた られていた。ポールは無難な人生を選択せんたくし一週間に四〇時間だけ働き、決まった給料をもらっていた。ピーターは青春を新事業にかけリスキーな報酬ほうしゅうを求めで一日中働いた。中年までにピーターは金持ちになったが、ポールはそうならなかった。ポールはこんなつもりではなかったと泣くことになり、この不平等は社会の制度がいけないからだとぼやいた。(中略)
 では、選択せんたくの結果ではなく、機会の結果として収入に差がついた場合にはどう考えればよいか。ここでもまた、親として自分が子どもにどう言っているかを思い返してみてほしい。二人以上の子どもに同時にケーキを出した場合、かならず「ずるいよ、こっちのほうが小さい」という声が上がるだろう。そのとき、もしあなたに忍耐にんたい心があるなら、「妹のケーキの大きさなんか気にしないで、自分のケーキをおいしく食べたほうがいいよ。そのほうが、いつも人と比べっこをしないと気がすまない子どもより、何倍もしあわせな人生を送れるから」と言い聞かせるかもしれない。
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a 長文 11.4週 nnzu
 徳川家康自身は、戦国武将の常として、漢詩文の読み書きはできなかった。しかしかれは、「漢文の力」をよく理解していた。
 家康が「漢文の力」を実感した最初の契機けいきは、一五七二年の三方ケ原の合戦であった。若き日の家康は、「孫子の兵法」に精通した武田信玄しんげんと交戦し、生涯しょうがい最大の大敗を喫しきっ た。武田家の滅亡めつぼう後、家康は武田家の遺臣を多く召し抱えめ かか 信玄しんげんの兵法や軍略を研究させた。
 (中略)
 日本史上、「漢文の力」を活用して日本人の思想改造に成功した統治者は、聖徳太子と徳川家康の二人であった。
 江戸えど時代は、王朝時代に次ぐ日本漢文の二番目の黄金時代であった。江戸えど期の漢文文化の特徴とくちょうとしては、
(一)漢文訓読の技術が、一般いっぱんに公開されたこと
(二)史上空前の、漢籍かんせきの出版ブームが起きたこと
(三)武士と百姓ひゃくしょう町人の上層部である中流実務階級が、漢文を学んだこと
(四)俳句や小説、落語、演劇などの文化にも、漢文が大きな影響えいきょう与えあた たこと
(五)漢文が「生産財としての教養」となったこと
 などがあげられる。
 室町時代まで、漢文訓読の方法、例えば訓点の打ちかたは、平安時代以来の学者の家の秘伝とされていた。訓点が一般いっぱんに公開され、われわれが見慣れている「レ点」「一二点」「送り仮名」などの訓点を施しほどこ 漢籍かんせきが広く出版されるようになったのは、江戸えど時代からであった。
 (中略)
 日本に来た朝鮮ちょうせん通信使は、日本側の文人と漢詩の応酬おうしゅうをした。これは国威こくいをかけた文の戦いでもあった。初期のころは、日本側が作る漢詩のレベルは低かった。あとになると日本側の漢詩のレベルが急速に向上したため、朝鮮ちょうせん側も一流の漢詩人を選んで日本に送るようになった。
 例えば、新井あらい白石は、幕府に仕える漢学者として、朝鮮ちょうせん通信使
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と礼をめぐって激しい論争をかわした。朝鮮ちょうせん側は、論争は別として、白石の漢詩を高く評価した。白石のほうも、自分の漢詩集の序文を朝鮮ちょうせん通信使に書いてもらうなど、彼らかれ の文学的能力に対して深い敬意を払っはら た。政治では対立しても、文化では友好をつらぬく、という態度が、日朝双方そうほうに見られたことは、興味深い。
 戦国時代まで野蛮やばんだった武士は、江戸えど時代の漢文ブームによって、朝鮮ちょうせんや中国の士大夫階級とわたりあえる文化的教養人になった。
 日本に渡っわた てきた朝鮮ちょうせん通信使は、華夷かい思想の立場から、日本固有の文化や風俗ふうぞくを低く見る傾向けいこうがあった。そんな彼らかれ さえ、日本の出版業の盛んなこと、とくに漢籍かんせきの出版物の豊富さと値段の安さには、驚きおどろ の目を見張った。
 (中略)
 江戸えど末期には、下級武士のみならず、ヤクザの親分や農民までもが漢文を学んだ。当時の漢字文化けんのなかで、このような中流実務階級が育っていたのは、日本だけである。日本がいちはやく近代化に成功できた理由も、ここにあった。
 中国でも、医者だった孫文のような中級実務階級は存在したが、彼らかれ の力は士大夫階級より弱く、そのため中国の辛亥しんがい革命(一九一一)は日本の明治維新めいじいしんより半世紀も遅れおく た。
 もし、初代将軍・徳川家康が儒学じゅがくを幕府の官学にするという構想をもたなかったら。もし、日本に漢文訓読というユニークな文化がなかったとしたら――。
 日本の近代化は、もっと困難な道をたどっていたに違いちが ない。

 (加藤かとうとおる氏の文章に基づく)
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a 長文 12.1週 nnzu
 われわれが日常しばしば経験する事実として、次のようなものがある。われわれが本を貸した場合に、借りた人が用ずみの後直ちに自発的に返してこないことが少なくない。それは、どのような意識によって裏づけられているのであろうか。その意識は、次の事実から推測され得るように思われる。すなわち、そのような場合に貸した人が本の返還へんかんを要求するしかたが、はなはだ特色的である。私は何回か外人から本を借りたことがあるが、返還へんかんがおくれると、貸した人(外人)は、きわめて「事務的」に、「先日あなたに貸した何々の本は、もし用ずみなら返してもらいたい」と言ってくる。われわれ日本人――少なくとも、私の知っている範囲はんいの、私と同じくらいの年齢ねんれいの人々――は、こういうふうに言うことに抵抗ていこうを感じ、若干悪びれて口実をもうけ言いわけをして(たとえば、「ぼくの友達であの本を見たいという者があるのだが。……」というふうに)でないと、返してもらいたいとは言えない。あたかも貸主のこのような行動のしかたに対応するかのごとく、借主は、用ずみの後に直ちに返さないことについて何ら罪の意識をもたないのが普通ふつうであり、むしろ、返還へんかんの要求があるまで返さないでもっているのが当たりまえででもあるかのごとくであり、むしろ、返還へんかんの要求をうけても、悪びれることもなく、また言いわけをすることもないのが普通ふつうのようである。私自身、本を貸してそのまま返してもらえないままになっている例は決して少なくない。極端きょくたんな例としては、こんな経験がある。私は学生からる本を貸してくれとたのまれ、快く貸したところ、二年ばかりたっても返してくれないので催促さいそくした。かれはその本の各所にペンや鉛筆えんぴつですじをひいたままで、何の悪びれるところもなく返してきたのである。……私の所有物である本を他人に貸したときは、私の現実支配の事実が終ったことによって、その本に対する私の所有権は弱いものになり、これに対応してその反面で、借主があらたにはじめた現実支配の事実は、私の所有権から独立した一種の正当性をもちはじめ、だんだん所有権に近いものになってくるように思われるのである。
 このような例は無数につづくが、最近までも減ることなく新聞をにぎわしている問題としていわゆる役得という現象がある。役得というのは、る地位についていることによって得られる利益で、
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しかも公式には承認されていないもの、を指すことばである。役得には種々のものがあるが、ここでの問題に関係があるものとしては、他人の財産の管理にあたる者が、その管理財産で私的に飲食ないし宴会えんかいをしたり旅行に行ったりする場合をあげることができる。もちろん、その管理者がその地位にもとづく職務として他人を接待する必要があって、管理財産で飲食ないし宴会えんかいをしたり温泉に行ったりすることは、正当である。しかし、その範囲はんいをこえて私的な目的でそのような行為こういをすることは、民事上は他人の財産に対する侵害しんがいであり、刑事けいじ上は「他人ノ事務ヲ処理スル者自己若クハ第三者ノ利益ヲ図りまたハ本人二損害ヲ加フル目的ヲ以テ任務二背キタル行為こういシ本人ニ財産ノ損害ヲ加エタルトキ」(刑法けいほう二四七条)というのに該当がいとうして背任罪となるのである。会社の重役が会社の費用で、自分の私宅を建築或いはある  修理したり、私宅用の美術品を買入れたり……して、会社の財産状態を悪化させ、取引先ないし債権さいけん者ひいては経済界一般いっぱんに大きな迷惑めいわくをかけた話が、最近の新聞の紙面をにぎわせたが、会社財産の実質上の所有者である株主に迷惑めいわくをかけたという最も重要なことが、新聞では必ずしも大きく取りあげられていないように思われる。(中略)いちばん面白いのは、第二次大戦中、「公物と思う心が既にすで 敵」という標語が郵便局のかべにはってあった、という事実である。民法の所有権の考え方を前提するなら、「公物」――国民個人の所有物でなくて「公け」すなわち政府や府県市町村の所有物――と思うことは、それを国民個人の私的利益のために使ってはならない(他人の所有権を侵害しんがいしてはならない)ということを意味するはずであるのに、この標語は逆に、公物と思うだけで「既にすで 敵」だと言うのである。言うまでもなくその理由は、「公物」だと思うとむだに使う、という傾向けいこうがあるからで、「むだ使いは敵だ」という戦争中の標語を特に「他人の所有物」たる公物について言ったまでのことである。
 (川島武「日本人の法意識」より)
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a 長文 12.2週 nnzu
 現代は高度情報化社会であるといわれる。湾岸わんがん戦争では、多国籍こくせき軍のステルス戦闘せんとう機によるバグダッド市内爆撃ばくげきが、あたかもTVゲームのように茶の間にリアルタイムに映し出された。今ではインターネットを通じて、過去では考えられない量の情報が、瞬時しゅんじに手に入る時代になっている。情報量の増大は、意思決定を単純化するであろうか。事態はそれほど簡単ではない。情報量の増大は情報のパラドックスという現象を引き起こすからである。
 つまり、情報があればあるほど、我々の事実認識があいまいになり、相対的な問題解決能力を喪失そうしつするということである。情報が多量にあるということには、三つの意味がある。まず、情報が細分化されるということである。「木を見て森を見ず」ということわざ通り、樹木に対する知識の増大は、森全体の構造的な認識を失わせることになる。情報の細分化は分析ぶんせきによって行なわれることが多いため、これを分析ぶんせき麻痺まひ(アナリシス・パラリシス)と呼ぶこともある。医学の専門分化の進展について考えれば分かりやすいかもしれない。
 また、情報の送り手が媒体ばいたいを通して伝える情報は、元の情報とは必ず異なる部分が生じる。これを情報スラックというが、情報システムの複雑化、ネットワークの錯綜さくそう化の進行によって、この情報スラックが増大する。情報の送り手と媒体ばいたいが複雑になれば、情報スラックも多く発生することになり、結果として真の情報がよりあいまいになる。だれでもやったことのある伝言ゲームを考えれば理解しやすい。伝言が伝わっていくに従い、余分な情報が加わったり、情報の一部が歪めゆが られたりすることはよく経験することである。
 第三は、そもそも我々の受け取る情報は、誰かだれ の意思決定の結果であるということである。TVで流れる情報は、現場の撮影さつえい者が意識的・無意識的に選択せんたくし、TV局が選択せんたくし、あなたがチャンネルを選択せんたくした結果の情報である。ニュース性が高いもの、人気のあるもの、もともと受け入れやすいものが優先される。切り捨てられた選択肢せんたくしに関する情報は、はじめから隠蔽いんぺいされていると見ることもできる。
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 さらに情報操作というやっかいなものが存在する。情報操作は、国家による情報統制のみならず、株の仕手戦、商品広告、あるいは個人レベルでの学歴詐称さしょうなど、ありとあらゆるレベルで行なわれている。しかも、意識的になされている場合もあるが、中には無意識に近いもの、指摘してきすれば情報操作なんてとんでもないという反論が返ってきそうなものもあろう。例えば、某社ぼうしゃの「植物物語シャンプーa」の宣伝文句は、「洗浄せんじょう成分の九九%以上を植物生まれに」と謳っうた ている。植物という言葉によって、かみへの優しさ、安心感等を訴えうった 購買こうばい意欲を高めようと狙っねら た宣伝かもしれない。実は、洗う成分の九九%以上が植物生まれなのであって、匂いにお や他の成分も含めふく た、シャンプー全体の成分の九九%以上が植物生まれであるとは言っていない。指摘してきされれば、このようにうそはついていないと反論するであろう。ぼう官庁の交通事故死亡者とシートベルト着用率に関する広報も同様である。
 さらに、テレビコマーシャル等で、シチューなべに具があふれ、グツグツと煮立ちにた 、湯気が立ち込めた こ ているシーンを観ることがある。しかし、本物のシチューの料理では、プロが作ってもこのようにはならない。実際には、なべの中を底上げして具を表面に出し、パイプであわを送り、横から水蒸気を吹き付けるふ つ  などの苦労をして、いかにもという「シチュー」のシーンを見せているのである。
 このように、悪意に満ちた情報操作とまではいかなくとも、意図的に計算された誤解、情報の一部のみの提供による認識操作、我々のステレオタイプに合致がっちするよう歪めゆが られたり脚色きゃくしょくされたりした情報などが、我々の周りには満ちあふれている。しかもこれらの情報量が極めて多いのが現代の特色である。我々は情報の海の中で生きているといっても過言ではない。
 
 (印南一路「すぐれた意思決定」より)
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a 長文 12.3週 nnzu
 今日ほとんどの人々は、民主主義と市場経済、すなわち資本主義のことを、まるで兄弟であるかのように最も自然なぺアとして語っている。ほぼ同時に産業資本主義と代表制民主主義が世界の隅々すみずみまで広がったために、この経済と政治の二つのシステムは完全に調和して共存している、という錯覚さっかくを作り出してしまったのかもしれない。
 しかし、ふたをあけて中を見てみれば、民主主義と資本主義の中核ちゅうかくをなす価値観が、それぞれ非常に異なることは明らかではないか。民主主義は極端きょくたんな平等を肯定こうていしている。つまり、いかに頭が良くても悪くても、勤勉でも怠慢たいまんでも、博識でも無知でも、一人一票なのである。社会への貢献こうけんに関係なく、選挙の日には、だれもが同じ「一票」をもつのである。歴史的に、この極端きょくたんな平等のシステムを擁護ようごする支配者はほとんどいなかった。今われわれはあらゆる人に一票を与えあた ている。知性、富、あるいは社会における影響えいきょう力とは無関係にである。そのようなシステムの恩恵おんけいについて、かつてのジュリアス・シーザーを説得しようとしたら、どんなことになるだろう。
 一方、資本主義は、極端きょくたんな不平等を肯定こうていしている。経済収益の差はインセンティブの構造を作り出し、それによってだれもが働き続け、すぐ先の未来に投資し続ける。不平等は、健全な資本主義に必要な競争をあおる。市場経済では、富はさらに富をもたらし、貧困はさらに貧困をもたらす。なぜなら、人的物的資産への投資――故に将来的な所得――は、現在の所得によって左右されるからだ。資本主義そのものには、平等化のメカニズムは組み込まく こ れていない。経済的適者は経済的不能者を絶滅ぜつめつさせると考えられている。実は、「適者生存」という言葉は、一九世紀の経済学者ハーバード・スぺンサーが作り出し、チャールズ・ダーウィンが進化論を説明するために借用したものだ。一九世紀の資本主義についての厳しい見解では、経済的飢餓きがは、この経済システムにおいて積極的な役割を果たしていた。資本主義は実は民主主義など必要ないのであり、それは一九世紀のアメリカに見られたように、奴隷どれい制と容易に共存することができるのである。
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 民主主義と資本主義は、基本的な次元で正反対である。基本的価値が異なるにもかかわらず、資本主義と民主主義の共存を可能にしたのは、先にもふれたように社会福祉ふくしと教育への公共投資である。マルクスは、これらの二つの要素、特に公共教育が、近代社会を強固なものにすることを予知していなかった。
 民主的な資本主義国では、国家が市場での結果を平等化するための措置そち(たとえば、累進税るいしんぜいなど)をとり、必需ひつじゅ品の取得を助ける(たとえば、住宅ローンに対する特別税免除めんじょなど)。もはや市場に必要とされなくなった人には、国家は年金、ヘルスケア、失業保険などの形で援助えんじょを提供する。そして、国家は人々が売りものになる技能、すなわち公共教育を習得するのを助け、そこそこの生活のかてを得られるようにする。(中略)
 このように、二〇世紀のほとんどを通じて、民主主義と資本主義は、相互そうご緊張きんちょうはあるが、比較的ひかくてき安定したバランスの中で共存することができた。第二次世界大戦後から一九七〇年代初期にかけての生産性が上昇じょうしょうし賃金が増大し国際経済が拡大し続けた資本主義の黄金時代には、この二つのシステムのチームワークは、すべての問題にとっての完璧かんぺきな解決策であるかのように思われたかもしれない。
 しかし今日では、この調和に見すごすことのできない亀裂きれつが現れている。民主主義的・資本主義的な社会システムの安定に対する圧力は増す一方で、社会福祉ふくしも社会投資も、グローバル経済、および国民経済の変化によって、脅威きょういにさらされている。スカンジナビア諸国の経験からもわかるように、広範囲こうはんいにわたる社会福祉ふくし制度は、理論上は理想的かもしれないが、実際問題として、維持いじするのが非常に難しいことがわかってきた。まず、所得税五〇パーセント、それに加えて、消費税二〇パーセント余りという形で、所得の半分をはるかに上回る額を政府に取られるというレベルまで税負担が増大し続ける。経済より急速に成長する社会福祉ふくし制度をいつまでも保つことは不可能であり、スカンジナビアでは、この試みは限界に達しているようだ。
 レスター・サロー著「経済探検未来への指針」より
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 普通ふつうに日本的性格、従って日本文化の特色として挙げられることは、日本人の同化力に基づいて外来文化を受容し集大成して文化が複質性または重層性を示してゐるといふのである。なるほどそれも一つの特色として挙げられるかも知れない。しかしどこの国の文化をとつて見ても外来文化の影響えいきょうを受けてゐないところはなく、そしてまた大抵たいていの場合にはそれを同化して独自の文化を発展させそして複質的または重層的文化を形成してゐるのである。また仮にそれが日本文化の特色であるとしてもそれは単に形式的な原理であつて、日本文化の内容そのものを具体的にへてゐるものではない。それならば何がいつたい日本的性格であるか。何がいつたい日本文化の内容上の特色であるか。日本的性格又はまた 日本文化にはどういふ諸契機けいきが見られるか。それをはつきりへることは甚だはなは 困難なことであるが、一つの試みを提出するのも必ずしも無意義ではなからうと思ふ。大体に於いお て日本的性格、従つて日本文化に三つの主要な契機けいきが見られるやうに私は思ふ。自然、意気、諦念ていねんの三つである。
 その三つはひにどういふ関係に立つてゐるか。先づ外面的には自然、意気、諦念ていねんの三つは神、、仏の三教にほぼ該当がいとうしてゐるとふやうにも見ることができる。従つて発生的見地からは神道の自然主義が質料となつて儒教じゅきょう的な理想主義と仏教的な非現実主義とに形相化されたとふやうにも考へられる。さうしてそこに神儒仏じゅぶつ三教の融合ゆうごう基礎きそとして国民精神が涵養かんようされ日本文化の特色を発揮したと見られるのである。
 今、質料とか形相とかつたが、この二つを内面的関連に於いお て見ることが必要である。形相といふものは外部から質料に加へられるといふ様なものではない。質料の中にもともと形相が潜んひそ でゐてそれがおのづから発展し自己創造して行くと共に自己に適合したものを外部から摂取せっしゅするのである。理想主義のあらはれの意気といふことと、非現実主義のあらはれの諦念ていねんといふこととは外来的な文化によつてはじめて新たに付け加へられた性質ではなく、既にすで 神道の自然主義の中に萌芽ほうがとして含まふく れてゐたものが次第次第に明瞭めいりょうにあらはれて来て、それと同時に外来的ではあるが自己に適合した要
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素として儒教じゅきょうや仏教の契機けいきをも摂取せっしゅし同化したのであると考ふべきである。
 (中略)
 以上に於いお て、自然といふ質料の中に意気とか諦念ていねんとかいふ形相が内的におのづから含まふく れてゐてそれが次第にあらはに大きく成長して来る可能性が見られたと思ふ。自然主義からおのづから理想主義や非現実主義が発展して来るのである。理想主義や非現実主義を外来的のものとして大和民族の本来性と相容れないやうに考へる機械的歴史観に賛意を表するわけには私はゆかぬ。然るになほここに問題が残されてゐる。それは意気と諦念ていねんとは果たして相容れるものであらうかといふことである。意気とは武士道に於いお て見られる自力精進の精神である。諦念ていねんは他力本願の宗教の本質をなしてゐる。この両者は果たして相容れるであらうか。一体、気節のために動く意気は動の方面である。物に動じない諦念ていねんは静の方面である。そして動の中に静があり、静の中に動があるといふ可能性が見られる限り意気と諦念ていねんとの結合の可能性も目撃もくげきされなければならぬ。武士道でも命に安んずるといふことをふ。武士道が死を顧みかえり ないといふ裏面には死をあつさり諦めあきら てゐるといふ知見がうかがはれる。一般いっぱんに死への存在といふやうなものは諦念ていねん基礎きそに有つた意気といふ形で明瞭めいりょうにあらはれてゐる。死は生を殺すものではない。死が生を本当の意味で生かしてゐるのである。無力とちょう力とは唯一ゆいいつ不二のものとなつてゐる。諦念ていねんは意気の中に見られる否定的契機けいきとして欠くことのできないものである。意気と諦念ていねんとはひに相容れないやうなものではなく、むしろ両者は相関的に成立するものである。

 (九鬼くき周造「日本的性格について」(一九三七年)による)
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