長文集  11月1週  ★スポーツを観る経験の仕方は(感)  nnzu2-11-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】スポーツを観る経験の仕方はふたつ
ある。ひとつはメディアによってスペクタク
ルとして受けとることである。それは消費行
動になる。メディアはスポーツを記号化し、
観戦者はそのなかに没入することはないが、
その記号を自分のペースで利用することがで
きる。【2】これはとくにテレビの場合に著
しい。それは直接の体験ではないばかりでは
ない。いつでもリプレイでき、画像を止める
ことも、そこに動きの説明を書き込むことも
できるからである。【3】観戦する側は、ス
タジアムにいるわけではなく、自分の家の室
内にいて、ときには別の行為をしながらとき
どき観るといった経験が可能である。スポー
ツは日常生活のなかに同化してしまうのであ
り、スポーツがわれわれを日常性から逸脱さ
せることはない。【4】われわれはスポーツ
のみならず、スポーツする身体も消費してい
るのである。
 テレビによる経験は、最初からある距離を
とっているから、決して臨場的なエクスタシ
ーを感じることはない。【5】しかしこれは
スポーツにたいして空間的、時間的に個人的
な経験を拡大する。われわれは決して個人で
は経験できないいろいろな角度、いろいろな
視野で観られるだけでなく、反復して観るこ
ともできるし、スローで確かめることもでき
る。【6】つまりスポーツをメディアが構成
する言説として受けとる。これは特異な経験
ではない。現代社会での経験は、生の出来事
を経験するよりも言説に媒介された経験の方
が正常だと言えるからである。【7】衛星中
継の発達によってわれわれの経験する空間は
ネーションを超えてひろがり、日本にいなが
ら世界のどこかで行われているゲームを観戦
することができる。【8】だがじかに目で観
ている場合と、速度、力、全体の雰囲気は違
っている。テレビのカメラを通したものであ
るし、レンズやフレーム、クローズ・アップ
とロング・ショットというイメージ言説のモ
ードは免れない。
 【9】しかしスタジアムに行くことは、す
でにそのゲームの一部になることである。も
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ちろん今そこで起こったことを再現して検証
したり、ファウルをチェックしたりすること
などできない。それができないことは、スポ
ーツ観戦が記号化できないことに他ならな 
い。【0】そのときテレビでは決してありえ
ない絶対的瞬間を経験する。日常のわれわれ
の生活はダブル・バインド(二重拘束)の状
態にあ∵る。というのは現代社会は多価値的
であり、同時に相反する異質な価値を受けと
ることが普通の状態であるからである。われ
われは最初からねじれた存在である。スポー
ツを直接観ることはそのことを忘れさせる。
われわれは日常のダブル・バインドの状態か
ら脱出する。少なくとも人びとは真の存在を
回復したような錯覚に陥る。われわれはこの
ことをエクスタシーと呼んでいる。
 言うまでもないがエクスタシーはスポーツ
の独占物ではない。芸術がもっとも深いエク
スタシーを生みだしてきたであろうし、宗教
も人をトランス状態に誘い込む。しかしスポ
ーツは身体的であり、決して特別な感受性を
必要とはしない。さらに今日では芸術にはむ
しろこうしたエクスタシーから遠ざかること
が必要になっている。宗教はたんなるエクス
タシーとは異なるものをもっている。そうな
るとスポーツのスタジアムで集団的に一体化
することは今日、もっとも普通の人間にエク
スタシーを経験させるものではないのか。わ
れわれのまわりには群衆がひしめいている。
自分もそのひとりなのである。この群衆経験
の極限にあるのがエクスタシーである。ファ
シズムの集団的行動は、このエクスタシーあ
るいはダブル・バインドの消滅を意識的に取
り入れたものであった。エクスタシーの瞬間
のもたらす幻覚は、日常を離脱し、他界に触
れ、真の存在を取りもどしたかのように錯覚
させることである。そうかんがえると政治が
スポーツを利用したというより、スポーツこ
そ政治のモデルであったのかもしれない。
 しかし現代社会では今後ますますメディア
の力はひろがり、直接的経験は少なくなる。
このことは間違いない。言い換えると、スポ
ーツはますます記号として消費される身体の
パフォーマンスにな る。これには明らかに
二つの面がある。ひとつは、スポーツの結果
が、結局は勝つか負けるかの二者択一に帰着
すること。しかしもう一面では、その放映権
料がスポーツを支え、巨大な資本の力は浸透
度をさらに強めていくだろう。主体のない巨
大な力がひろがる領域は、一見すると力の支
配のメカニズムの場に見えるが、スポーツは
そのメカニズムが単純なだけに、そのディジ
タルな競争の無限の反復は、反対に資本主義
のモデルに見えるようになっていくだろう。
(多木浩()ニ「スポーツを考える」より)