1. 【1】スポーツを観る経験の仕方はふたつある。ひとつはメディアによってスペクタクルとして受けとることである。それは消費行動になる。メディアはスポーツを記号化し、観戦者はそのなかに
没入することはないが、その記号を自分のペースで利用することができる。【2】これはとくにテレビの場合に著しい。それは直接の体験ではないばかりではない。いつでもリプレイでき、画像を止めることも、そこに動きの説明を
書き込むこともできるからである。【3】観戦する側は、スタジアムにいるわけではなく、自分の家の室内にいて、ときには別の
行為をしながらときどき観るといった経験が可能である。スポーツは日常生活のなかに同化してしまうのであり、スポーツがわれわれを日常性から
逸脱させることはない。【4】われわれはスポーツのみならず、スポーツする身体も消費しているのである。
2. テレビによる経験は、最初からある
距離をとっているから、決して臨場的なエクスタシーを感じることはない。【5】しかしこれはスポーツにたいして空間的、時間的に個人的な経験を拡大する。われわれは決して個人では経験できないいろいろな角度、いろいろな視野で観られるだけでなく、反復して観ることもできるし、スローで確かめることもできる。【6】つまりスポーツをメディアが構成する言説として受けとる。これは特異な経験ではない。現代社会での経験は、生の出来事を経験するよりも言説に
媒介された経験の方が正常だと言えるからである。【7】衛星
中継の発達によってわれわれの経験する空間はネーションを
超えてひろがり、日本にいながら世界のどこかで行われているゲームを観戦することができる。【8】だがじかに目で観ている場合と、速度、力、全体の
雰囲気は
違っている。テレビのカメラを通したものであるし、レンズやフレーム、クローズ・アップとロング・ショットというイメージ言説のモードは
免れない。
3. 【9】しかしスタジアムに行くことは、すでにそのゲームの一部になることである。もちろん今そこで起こったことを再現して検証したり、ファウルをチェックしたりすることなどできない。それができないことは、スポーツ観戦が記号化できないことに他ならない。【0】そのときテレビでは決してありえない絶対的
瞬間を経験する。日常のわれわれの生活はダブル・バインド(二重
拘束)の状態にあ∵る。というのは現代社会は多価値的であり、同時に相反する異質な価値を受けとることが
普通の状態であるからである。われわれは最初からねじれた存在である。スポーツを直接観ることはそのことを忘れさせる。われわれは日常のダブル・バインドの状態から
脱出する。少なくとも人びとは真の存在を回復したような
錯覚に
陥る。われわれはこのことをエクスタシーと呼んでいる。
4. 言うまでもないがエクスタシーはスポーツの
独占物ではない。芸術がもっとも深いエクスタシーを生みだしてきたであろうし、宗教も人をトランス状態に
誘い込む。しかしスポーツは身体的であり、決して特別な感受性を必要とはしない。さらに今日では芸術にはむしろこうしたエクスタシーから遠ざかることが必要になっている。宗教はたんなるエクスタシーとは異なるものをもっている。そうなるとスポーツのスタジアムで集団的に一体化することは今日、もっとも
普通の人間にエクスタシーを経験させるものではないのか。われわれのまわりには群衆がひしめいている。自分もそのひとりなのである。この群衆経験の極限にあるのがエクスタシーである。ファシズムの集団的行動は、このエクスタシーあるいはダブル・バインドの
消滅を意識的に取り入れたものであった。エクスタシーの
瞬間のもたらす
幻覚は、日常を
離脱し、他界に
触れ、真の存在を取りもどしたかのように
錯覚させることである。そうかんがえると政治がスポーツを利用したというより、スポーツこそ政治のモデルであったのかもしれない。
5. しかし現代社会では今後ますますメディアの力はひろがり、直接的経験は少なくなる。このことは
間違いない。
言い換えると、スポーツはますます記号として消費される身体のパフォーマンスになる。これには明らかに二つの面がある。ひとつは、スポーツの結果が、結局は勝つか負けるかの
二者択一に帰着すること。しかしもう一面では、その放映権料がスポーツを支え、
巨大な資本の力は
浸透度をさらに強めていくだろう。主体のない
巨大な力がひろがる領域は、一見すると力の支配のメカニズムの場に見えるが、スポーツはそのメカニズムが単純なだけに、そのディジタルな競争の無限の反復は、反対に資本主義のモデルに見えるようになっていくだろう。
6.(多木
浩ニ「スポーツを考える」より)