1. 【1】労働が私たちの社会的な存在のあり方そのものによって根源的に規定されてあるということには、三つの意味が
含まれている。一つは、私たちの労働による生産物やサービス行動が、単に私たち自身に向かって
投与されたものではなく、同時に必ず、「だれか他の人のためのもの」という規定を帯びることである。
2. 【2】自分のためだけの労働もあるのではないか、という反論があるかもしれない。なるほど、ロビンソン・クルーソー的な一人の
孤立した個人の自給自足的労働を極限として
思い浮かべるならば、どんな他者のためという規定も帯びない生産物やサービス活動を想定することは可能である。【3】じっさい、私たちの文明生活においても、一人暮しにおける家事活動など、部分的にはこのような自分の身体の
維持のみに当てられたとしか考えられない労働が存在しうる。
3. 【4】しかし、そのようにして
維持された自分の身体は、ほとんどの場合、ただその
維持のみを目的として終わることはなく、むしろ今度はそれ自身が他の外的な活動のために使用されることになる。【5】また自分自身を直接に養う労働
行為といえども、そこにはそれをなし得る一定の能力と技術が不可欠であり、それらを私たちは、ロビンソン・クルーソー的な
孤立に至るまでの
生涯のどこかで、「人間
一般」に
施しうるものとして習い覚えたのである。【6】自分自身を直接に養う労働
行為において、私たちは、「未来の自分」「いまだ自分ではない自分」を再生産するためにそれを行うのであるから、いわば、自分を「他者」であるかのように見なすことによってそれを実行しているのだ。【7】自分一人のために
技巧を
凝らした料理を作ってみても、どことなくむなしい感じがつきまとうのはそのゆえである。
4. 【8】さらに、私たちは、資本主義的な分業と
交換と流通の体制、つまり商品経済の体制のなかで生きているという条件を
取り払って、たとえば原始人は、閉ざされた自給自足体制をとっていたという「
純粋モデル」を
思い描きがちである。【9】だが、いかなる小さな
孤立した原始的共同体といえども、その内部においては、ある一人の労働
行為は、常に同時にその他の成員
一般のためという規定を帯∵びていたのである。【0】つまり、ある一人の労働
行為は、
彼が属する社会のなかでの一定の役割を担うという意味から自由ではあり得なかった。
5. 労働の意義が、人間の社会存在的本質に宿っているということの第二の意味は、そもそもある労働が可能となるために、人は、他人の生産物やサービスを必要とするという点である。これもまた、いかなる原始共同体でも変わらない。実際に協業する場合はいうに
及ばず、一見一人で労働する場合にも、その労働技術やそれに用いる道具や資材などから、他人の生産物やサービス活動の
関与を
排除することは難しい。すっかり
排除してしまったら、
猿が木に登って木の実を採取する以上の大したことはできないであろう。
6. そして第三の意味は、労働こそまさに、社会的な人間関係それ自体を形成する
基礎的な
媒介になっているという事実である。労働は人間精神の、身体を
介してのモノや行動への外化・表出形態の一つであるから、それははじめから関係的な
行為であり、他者への呼びかけという根源的な動機を
潜ませている。
7. 人はそれぞれの置かれた条件を
踏まえて、それぞれの部署で自らの労働
行為を社会に向かって
投与するが、それらの諸労働は、およそ、ある複数の人間
行為の統合への見通しと目的とを持たずにばらばらに存在するということはあり得ず、だれかのそれへの気づきと
関与と参入とをはじめから「当てにしている」。そしてできあがった生産物や一定のサービス活動が、だれか他人によって所有されたり消費されたりすることもまた「当てにしている」。他人との協業や分業のあり方、またその成果が他人の手に落ちるあり方は、経済システムによってさまざまであり得るが、いずれにしても、そこには、労働
行為というものが、社会的な共同性全体の
連鎖的関係を通してその意味と本質を受け取るという原理が
貫かれている。労働は、一人の人間が社会的人格としてのアイデンティティを承認されるための、
必須条件なのである。
8.(
小浜逸郎「人間はなぜ働かなくてはならないのか」より)