1. 【1】ガイドブック等で、見るべき価値があるものとして
紹介されたものを読んでいたのに、実際自分でその場所に出向いてみると、「裏切られた」と失望することもある。【2】だがその様に失望することが何を意味するかを考えると、「
既知感」に
陥ることなく、自分自身の
解釈が加わったと考えられる。これは少なくとも、自分自身が
介在できたことを意味している。【3】また事前にある程度の情報があったとしても、それ程心動かされないままに出向いて、実際自分の目で見回してみると、予想外に心に
響いた事があれば、この場合も「
既知感」に
陥らずに、自分自身が
介在して得られた発見であることは
間違いない。
2. 【4】あくまでも情報で得られた対象に関心を寄せ、目的と考えたものだけに
焦点を当てる、つまり極小点へ接近し、再確認することだけで納得する様な状態から、我々は
逃れる方法がないものなのだろうか。
3. 【5】それは周囲を
見渡す余裕を、積極的に引き出せるかに
掛かっている。というのも、その
余裕を引き出すことができれば、フッと
肩の力を
抜き、周囲に目を向けて見られるようになるからだ。そして大切なのは、点へ接近することだけで終わらず、その点に留意しながらも、その点を少しでも広げることを意識することである。
4. 【6】目的と考えた、その点に
辿り着くまでの間に何もない
筈がなく、そこで何か拾おうとすることは、必然的に点的思考から線的思考へと移行する。つまり点的思考とは、たとえれば、目的地に
辿り着くまで、乗り物の中で
居眠りして、着いた時にようやく目を覚まし、目的地だけを見てしまうことだ。【7】線的思考とは、たとえ目的地に向かって乗り物に乗っていたとしても、その間
居眠りすることもなく、周囲の風景に目を
凝らしながら乗っている状態である。当然、線的思考では乗り物を利用しなくても、徒歩でじっくり周囲に眼差しを注ぎながら目的地に向かうことも
含まれる。
5. 【8】また面的思考とは、点的思考、線的思考よりも、もっと
広範囲に眼差しを注ぐことである。点的思考、線的思考における点、線∵は、目的とする
範囲が限定されたものだが、面的思考になれば、目的地そのものが限定されない、つまりどこも目的地ではなくなるのだ。【9】そのことを逆に言えば、周囲のどこでもが目的地になることだ。さらに上空に広がる大空間へといった、空間的思考になればもっと広がり、三次元空間において、きっと予想を
越える発見が
舞い降りてくる、言わば予感に満ちた状態を手に入れることができるだろう。
6. 【0】「
既知感」は空間的に
捉えた、点的思考、線的思考、面的思考、
更に空間的思考への関心に留まるものではない。新しく創作することにおいても「
既知感」を持って臨んでいるか、臨んでいないかが、創造することを考える上で重要になる。
7. 新しく創作される時に、もし創作者が「
既知感」を持って創作の方向性を決めていたとしたら、その時、創造することから大きく後退してしまうのではないだろうか。つまりその
行為は、事前に見たり知識で得られたものに
依ってイメージされたものがあり、そこに向かおうとすることに他ならず、先人達が
成し遂げた形象や形態、あるいは考え方や論考等に近付こうとすることが、第一義となるからだ。確かに
行為そのものに
依って何がしかが生み出されたとしても、創造性に関して言えば何も新しいことが生み出されないことになる。それはなぞりにしか過ぎない、あるいは
模倣でしかないと見なされる運命を
辿る。
8. もしそれ等を
一旦脇に置くことができずに、創作する方向性さえも同じ、つまり「
既知感」を持ちつつ、なぞりや
模倣の域で終わるものになるなら、それは創作されたものとは決して見なされないのだ。
9. もし「
既知感」という手立てに対する意識から
離れることができれば、初めてその人にとって未知の世界が立ち現われたことを意味する。創造することとは、やはり未知の世界の中に自分が
飛び込み、未知の世界の中から自分自身が必要な因子を拾い上げ、構築、あるいは再構築する作業であることを忘れてはならないのだ。
10.∵
11. その意味において「
既知感」は、事前に得られた情報、
既に世に出た作品等に
頼ることなく、それぞれの局面において、いかに自分自身で発見できるかを問う、自分自身だけに
与えられたリトマス紙の様な、大切な判断の手立てと言えるのだろう。
12.(
矢萩喜従
郎「多中心の思考」より)