長文集  11月4週  ○マナーの精神をもつ人とは(感)  nnzu2-11-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/09/10 19:45:50
 【1】マナーの精神をもつ人とは、自制心
・克己心(こっきし ん)・忍耐力をもつだ
けでは十分ではなく、さらにまた優しさや寛
容さや親切心をもつだけでも十分ではない。
有用性を基にした目的的な企図を、気前よく
破壊する力を発揮できる必要がある。【2】
挨拶を例に取るなら、人は純粋贈与によって
、有用性に基づく交換の環から離脱すること
で、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをす
ることができる。そのときになにが起きてい
るのか。【3】おじぎをする前のなにものに
も依存することのない姿勢とは、垂直に直立
した姿勢であるが、おじぎによってその垂直
の姿勢は折り曲げら れ、エゴは挫かれ自己
は他者に開かれ他者を招き入れることにな 
る。【4】相手に屈服したからでも、敵意を
もっていないことを示すためでもなく、ただ
自己を開いて差しだすこと、これが純粋贈与
のおじぎである。この瞬間、目的的生から解
き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる
目的ももつことのない聖なる瞬間を生みだ 
す。【5】挨拶のおじぎと私たちが神や仏の
前で祈りを捧げる姿勢とが類似しているのは
、この両者が供犠(くぎ)として留保なく自
己を差しだすこと、つまり純粋贈与だからで
ある。
 私たちは、おじぎをすることによって、一
切の見返りなしに自己を他者の前に差しだす
ことがある。【6】それはバルネラブルな状
態に自らを曝(さら)けだしているといえる
だろう。なぜなら、差しだされた「私」を、
相手は無視したり拒否したりするかもしれな
いからだ。そのときには開かれ差しだされた
自己は、ひどく傷つけられるだろう。【7】
もちろん反対に、差しだすことによって、相
手の自己も折り曲げられ、相手から同様のお
じぎを受け取ることになるかもしれない。し
かし、そのような相手からの仕返しも見返り
も計算することなく、私たちは自らを開き、
無防備に自分を差しだす。【8】こうして無
条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎを
するたびに、大きな「賭」をしているのであ
る。
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 自己が有用性に基づく交換の環から離脱し
、非―知の体験ともいうべき自己ならざるも
のに開かれることによって、初めて私たちは
畏れと歓喜とを感じることができるのである
。【9】それは負い目を動機とする義務化し
た交換としての挨拶ではなく、純粋贈与とし
て∵自己を差しだしたときに生じるのである
。マナーの本性は純粋贈与であり歓待なのだ

 【0】このような自己の境界線が溶解する
非―知の体験の次元が感じられない人は、ど
のような場面においても、畏怖を感じること
はない。そのような人は自己を破壊すること
なく、あくまで同一的な自己にとどまり、挨
拶はたんなる形式的な社会的交換になってし
まう。マナーがマニュアル化できる身体技法
にすぎないのであれ ば、時間と熱意さえあ
れば、学校教育で教えることができるだろ 
う。挨拶の仕方のみならず、魅力的な笑い方
さえ、マニュアル化して教えることができる
。しかし、それではマナーは人間関係を円滑
にするための贈与交換の身体技法にすぎず、
他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を
開きはしない。そして身体は、自己から切り
離されて、ますます自分にとって道具のよう
なものになってしまうだろう。これではやが
てマナーは贈与交換でさえなくなる。どこま
でも私たちは「空虚の感」「不満と不安の念
」を抱き続けるしかない。

 (矢野智司()『贈与と交換の教育学』に
よる。)