1. 【1】マナーの精神をもつ人とは、自制心・
克己心・
忍耐力をもつだけでは十分ではなく、さらにまた優しさや
寛容さや親切心をもつだけでも十分ではない。有用性を基にした目的的な
企図を、気前よく
破壊する力を発揮できる必要がある。【2】
挨拶を例に取るなら、人は
純粋贈与によって、有用性に基づく
交換の
環から
離脱することで、初めて本当に他者に頭を下げおじぎをすることができる。そのときになにが起きているのか。【3】おじぎをする前のなにものにも
依存することのない姿勢とは、垂直に直立した姿勢であるが、おじぎによってその垂直の姿勢は折り曲げられ、エゴは
挫かれ自己は他者に開かれ他者を招き入れることになる。【4】相手に
屈服したからでも、敵意をもっていないことを示すためでもなく、ただ自己を開いて差しだすこと、これが
純粋贈与のおじぎである。この
瞬間、目的的生から解き放たれ、おじぎはそれ自体以外にいかなる目的ももつことのない聖なる
瞬間を生みだす。【5】
挨拶のおじぎと私たちが神や仏の前で
祈りを
捧げる姿勢とが類似しているのは、この両者が
供犠として留保なく自己を差しだすこと、つまり
純粋贈与だからである。
2. 私たちは、おじぎをすることによって、一切の見返りなしに自己を他者の前に差しだすことがある。【6】それはバルネラブルな状態に自らを
曝けだしているといえるだろう。なぜなら、差しだされた「私」を、相手は無視したり
拒否したりするかもしれないからだ。そのときには開かれ差しだされた自己は、ひどく傷つけられるだろう。【7】もちろん反対に、差しだすことによって、相手の自己も折り曲げられ、相手から同様のおじぎを受け取ることになるかもしれない。しかし、そのような相手からの仕返しも見返りも計算することなく、私たちは自らを開き、無防備に自分を差しだす。【8】こうして無条件に相手を招き入れる。私たちはおじぎをするたびに、大きな「
賭」をしているのである。
3. 自己が有用性に基づく
交換の
環から
離脱し、非―知の体験ともいうべき自己ならざるものに開かれることによって、初めて私たちは
畏れと
歓喜とを感じることができるのである。【9】それは負い目を動機とする義務化した
交換としての
挨拶ではなく、
純粋贈与として∵自己を差しだしたときに生じるのである。マナーの本性は
純粋贈与であり
歓待なのだ。
4. 【0】このような自己の境界線が
溶解する非―知の体験の次元が感じられない人は、どのような場面においても、
畏怖を感じることはない。そのような人は自己を
破壊することなく、あくまで同一的な自己にとどまり、
挨拶はたんなる形式的な社会的
交換になってしまう。マナーがマニュアル化できる身体技法にすぎないのであれば、時間と熱意さえあれば、学校教育で教えることができるだろう。
挨拶の仕方のみならず、
魅力的な笑い方さえ、マニュアル化して教えることができる。しかし、それではマナーは人間関係を
円滑にするための
贈与交換の身体技法にすぎず、他者や自然や宇宙との生きた全体的な回路を開きはしない。そして身体は、自己から
切り離されて、ますます自分にとって道具のようなものになってしまうだろう。これではやがてマナーは
贈与交換でさえなくなる。どこまでも私たちは「
空虚の感」「不満と不安の念」を
抱き続けるしかない。
5. (矢野
智司『
贈与と
交換の教育学』による。)