長文集  12月1週  ★「ソト」と「ウチ」(感)  nnzu2-12-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】「ソト」と「ウチ」という観念は、
本来は、外部と内部との対としてなんの変哲
もないものだが、和辻哲郎あたりがこれに特
別な意味づけをあたえて以来、日本文化の特
徴をあらわすのには欠かせない観念となって
しまった。【2】たとえば、個人主義的な欧
米人にとっては、個人あるいは個室という究
極の「ウチ」があり、屋内、近所、町、国な
どと、次第に「ソト」の度合いが強まってい
くだけである。【3】しかしながら、日本人
にあっては、固い核としての個人はなく、「
ウチ」と「ソト」とが常に相対的に入れ子状
になり、そのつど自分を、「ウチ」となる準
拠集団の一員として規定し、その集団の価値
観を自分の内部に取りこんでしまうというの
である。
 【4】したがって、夫が「ウチのひと」に
なったり、会社が「ウチの会社」になったり
して、内部の恥はみんなで隠蔽したり、外部
のことは笑ってすませたりすることにもなっ
てくる。【5】つま り、「ウチ」はベタベ
タ、「ソト」は切り捨てとなり、女房の深情
けと知的無関心とが同居するようになるので
ある。
 さて、日本語の以心伝心は、まさしくこの
「ウチ」において肥大し、情を中心にして蔓
延する。【6】おかげで、家庭的な「ミウ 
チ」は欧米にくらべ、まだまだ情緒的安定を
見せており、あの「メシ、フロ、ネル」です
んでもいるが、同心円的に広がっていく「ウ
チ」のかなりの部分では、他人への臆病なま
での配慮が要求され、時に、強迫的なものに
さえなってる。【7】したがって、たとえ中
身は空っぽであっても、ある種のフォーマリ
ティとしての言語が贈答品のように交換され
続け、しかるべき人には、時におうじて、恭
順の意を表する儀式が欠かせないのである。
【8】ここには、情的なやりとりと、それと
は一見、相いれないように思われる形式的な
言語との共犯関係ができている。つまり空っ
ぽのフォーマリティであっても、それを発す
ること自体が情の表明になるわけだ。【9】
こうした「ウチ」への配慮、ムラ社会の体質
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は、大都会のただ中にある会社や自治体にさ
え根づよく残り、世間体や、世間からの無言
の圧力が、人々に同調・同化を求め、そこで
の対話を切り捨てているとしても、何の不思
議もありはしない。
 【0】そんなわけで、対人関係は、この「
ミウチ」「ウチ」「ソト」∵の区別によって
大きく変わり、「ミウチ」には無遠慮、「ウ
チ」には多少の甘えと臆病なまでの配慮、「
ソト」には、完全な無関心が占めることにな
る。取引先や社内ではペコペコして、あれほ
どにも譲りあっていたサラリーマンが、帰り
の電車のなかで隣りあわせた見ず知らずの人
には、これほどにも不躾になれるというの 
も、その秘密はここにこそあるわけだ。
 ただし、「ソト」のものが大衆や雑踏とし
て出会われる限りで は、完全な無関心でい
られるが、その人物が一人の他者としてこち
らを見つめ、きっぱりとした態度で話しかけ
てきた場合には、わが同胞は、きわめて不安
定な状態におかれてしまうにちがいない。「
ミウチ」や「ソト」では言葉をかわさず、「
ウチ」では儀礼的・形式的な言葉しか使わな
い者にとって、立場をこえた個人対個人の対
話などありえるはずもなく、この他者に対し
、どのような態度で、どのような言語を使え
ばいいか、かいもく見当がつきかねるからで
ある。
 つまり、「ソト」を意識しはじめると、私
たちはきわめて観念的な恐怖と好奇心との入
りまじった態度をとることになる。できるな
らばこの他者を排除し、自分自身はふたたび
居心地のよいタコツボに逃避したいと考えて
も、おかしくはないだろう。「ソト」と「ウ
チ」の文化論は、私たちの言語放棄とタコツ
ボ指向とを際立たせてくれるものにほかなら
ない。
 こうした私たちのタコツボ指向を物語る好
例としては、わが国のいたるところに見うけ
られる仲間言葉があげられよう。政界のなか
だけに閉じている政治言語、企業社会のなか
だけに閉じている業界用語、若者世代のなか
だけに閉じている若者言葉などが、さらにそ
れぞれの下位区分をもち、行政語、官僚語、
マスコミ語、学生語、コギャル語といったさ
まざまな集団言語をつくり出しているのであ
る。このような集団言語は、コミュニケーシ
ョンの範囲を限定することによって、なによ
りもまず、そこに自分たちのアイデンティテ
ィを求めようとする。

(加賀野井秀一()「日本語の復権」より。
一部変更()。)