1. 【1】一連の関連情報に熟知しているはずの情報科学の担当者でも、二、三
ヵ月単位で
入れ替わる最先端の機器のことはすぐにわからなくなるという。【2】理科系学部の出身者でも、わからないと音を上げる
先端機器の
扱い方は、いまでは一
握りの人間だけが専門家として熟知しているのだという。機能がよくなるたびに使い捨てにするのは、ソフトや機器類だけではない。
2. 【3】みかけの明るさのなかにある、この不気味な
闇はいったいどう
解釈すればいいのか。専門の医師さえ知らない最新の病気の
症状もインターネットで手に入るし、あやしげな薬も
核兵器までもがインターネットで手に入る時代になったのである。
3. 【4】
迷惑メールやヴィールスのあつかいを今後どうするのかも、これからの共同の課題であろう。しかし、それと同時に、いまなお外国の放送が自由に受信できず、外からの情報が
遮断されている国がすぐ近くにもあることを忘れないでいたい。【5】そうして、いまこの
瞬間にも、われわれの貴重な文書が、
時代遅れでもう要らないとみなされて、大量のごみとして、どしどし
抹殺される新しい
焚書の時代がいま進行していることを忘れてはならない。
4. 【6】今後、われわれは、あまたの情報機器をどう使いこなしていけばいいのか。その
知恵が共通の
知恵として、われわれの社会に根づくには、まだだいぶ時間がかかりそうである。そのときが来るまで、この私が、はたして無事に生きていられるという保障はない。【7】とすれば、私はやはり、自分のメモやノートのたぐいは、ある程度は手書きのまま残しておくのがいいのではないか。ファイルなども、すべて
抹殺して自己の責任を帳消しにしたがる文化は、自分史の
痕跡すら
抹殺する文化であることを忘れないでいたいものである。
5. 【8】情報化時代は、いくら言われ聞かされても、自分の利害に直接関わりがないと、知らぬ存ぜぬという顔をする
厚顔無恥な
傾向を助長するところがある。【9】またいま、われわれ現代人がどれほど誠実に現代社会の諸問題に対して
処方箋を考えてみたところで、それが後代の日本人に対する
処方箋にはなりえないだろうということがある。そういう言説は、それを発する当人の世代に対する
処方箋でし∵かないということも真実なのだ。
6. 【0】そう考えると、二十一世紀の人間には、この先の二十年、三十年先のことまでは、とても予測できないだろうという悲観論も、引きうけなくてはならなくなる。
7. 私という人間が、せまく「われ」という
殻に閉じこもって「ひとり」になるのと、せまい「われわれ」のなかに
逃げ込むのは、別ではなく、どこかでつながっている。あえて
孤立化することと、みかけの連帯を志向するのは、逆方向にむかう別の動きではあるものの、結果としてせまいかたちでひとつになっている、というのが日本的な「われ」と「われわれ」のかかえる、むずかしい問題のありかを
象徴的に示している。
8. こうして、せまく小さいi
−weが密接に関わりあい、
お互いになりかわりあい、支えあうが、他の者はすべてtheyとして
突き放し、目をやらないというのが日本人の「日本人らしさ」になっている。
9. そこにある問題をこのまま放置しておいていいのか、というのが私の問いかけたい問いである。今後、より開かれた国際社会のなかで、よりひろい生き方を選びとろうとするなら、たとえ自分とは異質であっても、協力し共生していくために、新たな連帯の道を
模索することがあってもいいのではないか。そういう方向に自らを認識させようとする生き方を、さらに
模索していくことがいまわれわれに求められているのではないか。
10. 「われ」が「われわれ」と同じものを求めあい、「われ」が他の「われ」と容易になりかわりあう社会。そういう慣例が国民レベルですでに
浸透しきっている日本という社会は、どこまでも同質であることに価値をおき、そのなかで、似通った人材の再生産をめざす社会になっている。
11. 国の内外に見られる「平和」というものも、そのせまい生ぬるい
排他的な社会のあり方から来ている。そのなかにあるかぎり、とくにめだった
反抗をしないでいれば、痛くもかゆくもない安全と平和が保障されている。だが、それが見えないところでどれだけ絶望に
充ちたあり方になっているか、何もしなくていい問題であるかはまた別の問題である。
12.(小原信「iモード社会の「われとわれわれ」)