長文集  12月4週  ○この国の人々は(感)  nnzu2-12-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2011/09/13 16:20:17
 【1】この国の人々ははるかな昔から自分
のことを「わ」と呼んできた。ただ、それを
書き記す文字がなかった。中国から漢字が伝
わる以前のことである。これは今でも「われ
」「わたくし」「わたし」という形で残って
いる。
 【2】日本がやがて中国の王朝と交渉する
ようになったとき、日本の使節団は自分たち
のことを「わ」と呼んだのだろう。中国側の
官僚たちはこれをおもしろがって「わ」に倭
(わ)という漢字を当てて、この国を倭国、
この国の人を倭人と呼ぶようになった。【3
】倭(わ)という字は人に委ねると書く。身
を低くして相手に従うという意味である。中
国文明を築いた漢民族は黄河の流れる世界の
中心に住む自分たちこそ、もっとも優れた民
族であるという誇りをもっていた。そこで周
辺の国々をみな蔑んでその国名に侮蔑的な漢
字を当てた。【4】倭国も倭人もそうした蔑
称である。
 ところが、あるとき、この国の誰かが倭国
の倭(わ)を和と改めた。この人物が天才的
であったのは和は倭(わ)と同じ音でありな
がら、倭(わ)とはまったく違う誇り高い意
味の漢字だからであ る。【5】和の左側の
禾は軍門に立てる標識、右の口は誓いの文書
を入れる箱をさしている。つまり、和は敵対
するもの同士が和議を結ぶという意味になる

 この人物が天才的であったもうひとつの理
由は、和という字はこの国の文化の特徴をた
った一字で表わしているからである。【6】
というのは、この国の生活と文化の根底には
互いに対立するもの、相容れないものを和解
させ、調和させる力が働いているのだが、こ
の字はその力を暗示しているからである。
 和という言葉は本来、この互いに対立する
ものを調和させるという意味だった。【7】
そして、明治時代に国をあげて近代化という
名の西洋化にとりかかるまで、長い間、この
意味で使われてきた。和という字を「やわら
ぐ」「なごむ」「あえる」とも読むのはその
ためである。「やわらぐ」とは互いの敵対心
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が解消すること。【8】「なごむ」とは対立
するもの同士が仲良くなること。「あえる」
とは白和え、胡麻和えのように料理でよく使
う言葉だが、異なるものを混ぜ合わせてなじ
ませること。∵
 この国の歌を昔から和歌というのは、もと
もとは中国の漢詩に対して、和の国の歌、和
の歌、自分たちの歌という意味だった。【9
】しかし、和歌の和は自分という古い意味を
響かせながらも、そこには対立するものを和
ませるというもっと大きな別の意味をもって
いた。九〇〇年代の初めに編纂された『古今
和歌集』の序に、編纂の中心にいた紀貫之は
次のように書いている。

 【0】やまとうたは、人の心を種として、
万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人
、ことわざ繁きものなれば、心に思ふこと 
を、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せる
なり。花に鳴く鶯、水に住む蛙(かはづ)の
声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか
歌をよまざりける。力をも入れずして天地を
動かし、目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあ
はれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛(た
け)き武士の心をも慰むるは歌なり。

 「男女の中をも和らげ」というところに和
の字が見えるが、それだけが和なのではない
。「力をも入れずして天地を動かし、目に見
えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ、
男女の中をも和らげ、猛(たけ)き武士の心
をも慰むる」というくだり全体が和歌の和の
働きである。和とは天地、鬼神(おにがみ)
、男女、武士のように互いに異質なもの、対
立するもの、荒々しいものを「力をも入れず
して……動かし、……あはれと思はせ、……
和らげ、……慰む  る」、こうした働きを
いうのである。これが本来の和の姿だった。

 (長谷川櫂()『和の思想』中公新書、二
〇〇九年、四〇〜四六ページ、抜粋・一部改
変)