1. 【1】子どものころ、わたしは「ノーの一語」という見出しの文を読んだことがある。それは、あるイギリス人の書いた本から
訳したものだということで、「ノー」ということばは、ときとしてたいへん言いにくいことばであるが、言いにくいからといって、言うべきときに、言わないでいると、相手に思いもよらない
迷惑をかけることがある、というものであった。【2】これは、おそらく、人間という人間が、生きていくあいだにいくどとなくぶつかる問題であると思う。わたしもこの問題について考えてきたことを書いてみたい。
2. ことばの生活には、ときどき、言いにくいことばがあらわれて、わたしたちのことばを、にごらせたり、くもらせたり、ゆがませたりする。
3. 【3】「
忘れました。」もそのひとつである。このことばを言うとき、知らないあいだに、わたしたちの声は小さくなったり、
不明確になったりしやすい。ことに、
忘れてはならないだいじな用事を
忘れたときなど、「
忘れました。」は、いっそう言いにくいことばになって、なぜ
忘れたかという言いわけのほうが、それよりもさきに口をついて出てくる。【4】しかし、そういう言いわけは、じっさいには
責任転嫁にきこえるだけで、なんのききめもない。「
忘れました。すみません。」という、
責任感から出たことばだけが、相手の心をほぐす力がある。それを言ったあとで、
忘れるようになった
事情をのべれば、それは
責任のがれではなく
誠意のこもったことばとして、相手の心に通じるものである。
4. 【5】
一般に、「ください。」とか「おねがいいたします。」とかいう
依頼のことばや、「すみません。」とか「ゆるしてください。」とかいうようなわびのことばも、言いにくいものである。【6】ことに、まだことばの生活にじゅうぶんなれていない少年や青年のころには言いにくい。そのために、つい、言うのをためらったり、ことばをあいまいにしたりして、
卑屈な
態度になりやすい。【7】あるいはまた、まともに「申しわけありません。」と言うかわりに、「おわびに来ました。」というような言い方になりやすい。それではおわびの真実はあらわれない。言いにくさを
押しきって言う声やすがたこそ、おわびの真実があらわれて、相手の心を動かすのである。∵【8】そのようにだいじな、しかも、ことばとしてみればほんのかんたんなひとことが、どうしてそんなに言いにくいのであろうか。それは、こういうことばは、自分の失敗や、欠点や、無力さを、みずからみとめる
自己否定のことばだからである。
5. 【9】しかし、自分を
否定するとは、自分の全体をだめだとしてしまうことではない。
6. 自分のここがまちがっていたとか、この点がたりなかったのだとか、自分からはっきりみとめてそれを
否定することであり、そうすることで、わたしたちは明るくなり、つよくなる。【0】とはいっても、自分の全部を
肯定して、自分だけは完全なもののように思っていたいのが
人情である。だから、だれでも、自分の欠点をみとめたり、みとめられたりすることは、
本能的にさけようとするのである。
7. こういう
類の言いにくいことばをほんとうに
征服することができたとき、人間としての真実が開けてくる。また、人間としての真実があらわれるとき、言いにくいことばも
征服される。そういう真実になってものを言うとき、そのことばはよく相手に通じるだけでなく、ことばのひびきもすがたもすっきりしてくるのである。