長文集  10月4週  ○はじかれたように、  nu-10-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 14:55:21
 はじかれたように、ぼくはふすまに手をか
けた。一気にひきあけると、廊下にとびだし
た。
 でも、やっぱりそこには、だれもいないの
だ。それなのに、だれもいない廊下を、小さ
な足音だけが、ゆっくりと遠ざかっていく。
 ぼくの体の中に、大きな恐怖がふくれあが
ってきた。その恐怖 が、悲鳴になって口か
らあふれでそうになったとき、表座敷に通じ
る廊下の角を曲がって、ひょいと、いとこの
昌一が姿をあらわし た。
「よお。しげちゃん。」
 もし、昌一のそういう声をきかなかったら
、まちがいなくぼくは叫んでいただろう。だ
って、中学生の昌一の頭は坊主刈りで、おま
けにその日昌一は、中学校の制服の白い開襟
シャツと黒い学生ズボンをはいていたものだ
から、ぼくにはまるで、さっきの男の子が急
に大きくなって、またそこにあらわれたよう
な気がしたのだ。
「よお。」
 立ちすくむぼくに向かってもう一度声をか
けながら、昌一が近づいてきた。いつも無愛
想な顔にせいいっぱい愛想のいい、照れたよ
うな笑いを浮かべている。
「昌(しょう)……ちゃん。」
 ぼくは、かすれたような声で、いとこの名
を呼んだ。
「い……今、だれかと、すれちがわなかった
? 小さい……坊主頭の男の子と……。」
 昌一は、ぎょっとしたようにうしろをふり
むき、それから、きょろきょろとあたりをみ
まわし、ちょっと肩をすくめてみせた。
「いいや。だれとも……。なんや? それ。

 ぼくの全身に、どっと冷たい汗がふきだし
た。あの子は、この暗い廊下から、あとかた
もなく消えうせてしまったのだ。
 それが、ぼくがぼっこにであった最初だっ
た。
 ぼくは今でも、あの夜のことを思いだす。
裏庭の闇の中で降るように花を散らしていた
桜を。長い廊下の天井で、頼りなくゆれて∵
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いた電灯を。ぼくと昌一の間を埋めていた、
あのなつかしいおばあちゃんの家のにおいを
……。
 でも、そのときにはぼくはまだ、自分が本
当にこの家で暮らすことになるなんて思って
もいなかった。いつかまた、ぼっことであう
日がくるとは考えもしなかった。
 それなのに、あのぼんやりとした春の夜、
ぼくのまわりではも う、新しいなにかがう
ごきだそうとしていたのだ。

(富安陽子「ぼっこ」)