長文集  11月4週  ○初七日の終わった夜、  nu-11-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2014/09/04 15:07:35
 初七日の終わった夜、私はふとんを抜け出
し、母屋を出て離れにある弟の部屋に行った
。電灯の紐をさがしていると高校生特有の、
運動部の選手独特の汗のしみた匂いが漂った

 あかりをつけると、そこには受験勉強の最
中だった弟の時間が停止したまま浮かび上が
っていた。私は弟の机を掌で触れた。ひんや
りとした木目の感触から、つい十数日前まで
、ここで笑ったり、うたを歌ったり、悩んだ
りしていただろう若いゴツゴツした弟の気持
ちのようなものが感じられた。
 部屋を見回した。かつて私も使っていた本
棚があった。『樽にのって二万キロ』『コン
チキ号漂流記』『冒険者×××()』、そんな
本が並んでいた。小夜の話は本当であった。
 してはならないと思ったが、私は弟の引き
出しを開けてみた。大学ノートが一冊あった
。それは弟が高校に入学してからの日誌で、
毎日ではないが日々のこと、サッカーの練習
、小遣いの出納も記してある雑記帳のような
ものだった。真面目な弟の性格がよくあらわ
れていた。
 二月のある日、そのページだけが文字がて
いねいに書いてあっ た。その日は弟の誕生
日である。私が父と争って出ていった翌月だ
った。
 要約すると、――兄が父と争って家にもど
らないことになった。母に相談し父に命じら
れて、自分はこの家を継ぐことにした。医者
になる。父は病院をたてると言った。だが自
分はシュバイツァーのような医者になりたい
。アフリカに行きたい。しかし親孝行が終わ
るまでがんばって、それからアフリカに行き
冒険家になりたい。その時自分は四十歳だろ
うか、五十歳だろうか……。それでも自分は
それを実現するために、体を鍛えておくのだ
。私は兄にずっとついてきた。兄が好きだ…
…――
 弟はその冬、北海道大学の医学部志望を担
任に提出したという。
 私は自分の身勝手さ、いいかげんさを思っ
た。済まないと思っ∵た。長男である私のわ
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がままが、弟を泣かせ、孤独にしていた。
 あの夏の午後、川向こうの屋敷町に私は弟
と二人で蝉を捕りに行った。私達の町と違っ
てそこは塀の上にまで大きな木々が茂り、蝉
は捕り放題にいる。たちまち弟の持つかごは
蝉で一杯になった。
 帰ろうとした時、屋敷町の子供達に囲まれ
た。蝉を置いて行けといわれた。四、五人の
相手は身体も大きかった。弟は背後で私の上
着を握りしめていた。私はだまっていた。す
ると背中で急に弟が大声で泣き出した。子供
達は笑った。そして弟の持っていたかごから
蝉をわしづかみにして、何匹かを道に投げつ
けた……。
 家に帰ってから、私は弟をなじった。二度
とおまえをどこにも連れて行かない、と言っ
た。そういわれても弟は私のそばを離れない
で、しゃくりあげながら私を見ていた。そん
な弟によけい腹が立った私は、弟をなぐりつ
けた。弟はあやまりながら私を見つめてい 
た。
 ふとした時に、あの夏の日の弟の目を思い
出し、日誌の文字が浮かぶ。あの少年達に立
ち向かうこともしなかったひきょうな自分を
思う。あやまることのできない自分が生きて
いる。
 蝉は壁にじっとしている。窓を開けたまま
、私は電灯を消した。どこか他人とは思えぬ
一匹と、自分を情けないと思っている一人が
暗闇の中にいる。
 もう秋がそこまで来ている。

(伊集院静「夜半の蝉」)