1. 初七日の終わった夜、
私はふとんを
抜け出し、母屋を出て
離れにある弟の部屋に行った。電灯の
紐をさがしていると高校生特有の、運動部の選手
独特の
汗のしみた
匂いが
漂った。
2. あかりをつけると、そこには受験勉強の最中だった弟の時間が停止したまま
浮かび上がっていた。
私は弟の
机を
掌で
触れた。ひんやりとした木目の
感触から、つい十数日前まで、ここで笑ったり、うたを歌ったり、
悩んだりしていただろう
若いゴツゴツした弟の気持ちのようなものが感じられた。
3. 部屋を見回した。かつて
私も使っていた
本棚があった。『
樽にのって二万キロ』『コンチキ号
漂流記』『
冒険者
×××』、そんな本が
並んでいた。小夜の話は本当であった。
4. してはならないと思ったが、
私は弟の引き出しを開けてみた。大学ノートが一
冊あった。それは弟が高校に入学してからの
日誌で、毎日ではないが日々のこと、サッカーの練習、
小遣いの
出納も記してある
雑記帳のようなものだった。真面目な弟の
性格がよくあらわれていた。
5. 二月のある日、そのページだけが文字がていねいに書いてあった。その日は弟の
誕生日である。
私が父と争って出ていった
翌月だった。
6. 要約すると、――兄が父と争って家にもどらないことになった。母に相談し父に命じられて、自分はこの家を
継ぐことにした。医者になる。父は病院をたてると言った。だが自分はシュバイツァーのような医者になりたい。アフリカに行きたい。しかし
親孝行が終わるまでがんばって、それからアフリカに行き
冒険家になりたい。その時自分は四十
歳だろうか、五十
歳だろうか……。それでも自分はそれを
実現するために、体を
鍛えておくのだ。
私は兄にずっとついてきた。兄が好きだ……――
7. 弟はその冬、北海道大学の医学部
志望を
担任に
提出したという。
8.
私は自分の身勝手さ、いいかげんさを思った。
済まないと思っ∵た。長男である
私のわがままが、弟を泣かせ、
孤独にしていた。
9. あの夏の午後、川向こうの
屋敷町に
私は弟と二人で
蝉を
捕りに行った。
私達の町と
違ってそこは
塀の上にまで大きな木々が
茂り、
蝉は
捕り放題にいる。たちまち弟の持つかごは
蝉で
一杯になった。
10. 帰ろうとした時、
屋敷町の
子供達に囲まれた。
蝉を置いて行けといわれた。四、五人の相手は身体も大きかった。弟は
背後で
私の上着を
握りしめていた。
私はだまっていた。すると
背中で急に弟が大声で泣き出した。
子供達は笑った。そして弟の持っていたかごから
蝉をわしづかみにして、何
匹かを道に投げつけた……。
11. 家に帰ってから、
私は弟をなじった。二度とおまえをどこにも連れて行かない、と言った。そういわれても弟は
私のそばを
離れないで、しゃくりあげながら
私を見ていた。そんな弟によけい
腹が立った
私は、弟をなぐりつけた。弟はあやまりながら
私を見つめていた。
12. ふとした時に、あの夏の日の弟の目を思い出し、
日誌の文字が
浮かぶ。あの少年達に立ち向かうこともしなかったひきょうな自分を思う。あやまることのできない自分が生きている。
13.
蝉は
壁にじっとしている。
窓を開けたまま、
私は電灯を消した。どこか他人とは思えぬ一
匹と、自分を
情けないと思っている一人が
暗闇の中にいる。
14. もう秋がそこまで来ている。
15.(
伊集院静「夜半の
蝉」)