長文 11.4週
1. 初七日の終わった夜、わたしはふとんを抜け出しぬ だ 、母屋を出て離れはな にある弟の部屋に行った。電灯のひもをさがしていると高校生特有の、運動部の選手独特どくとくあせのしみた匂いにお 漂っただよ た。
2. あかりをつけると、そこには受験勉強の最中だった弟の時間が停止したまま浮かび上がっう  あ  ていた。わたしは弟のつくえてのひら触れふ た。ひんやりとした木目の感触かんしょくから、つい十数日前まで、ここで笑ったり、うたを歌ったり、悩んなや だりしていただろうわかいゴツゴツした弟の気持ちのようなものが感じられた。
3. 部屋を見回した。かつてわたしも使っていた本棚ほんだながあった。『たるにのって二万キロ』『コンチキ号漂流ひょうりゅう記』『冒険ぼうけん×××』、そんな本が並んなら でいた。小夜の話は本当であった。
4. してはならないと思ったが、わたしは弟の引き出しを開けてみた。大学ノートが一さつあった。それは弟が高校に入学してからの日誌にっしで、毎日ではないが日々のこと、サッカーの練習、小遣いこづか 出納すいとうも記してある雑記ざっき帳のようなものだった。真面目な弟の性格せいかくがよくあらわれていた。
5. 二月のある日、そのページだけが文字がていねいに書いてあった。その日は弟の誕生たんじょう日である。わたしが父と争って出ていった翌月よくげつだった。
6. 要約すると、――兄が父と争って家にもどらないことになった。母に相談し父に命じられて、自分はこの家を継ぐつ ことにした。医者になる。父は病院をたてると言った。だが自分はシュバイツァーのような医者になりたい。アフリカに行きたい。しかし親孝行おやこうこうが終わるまでがんばって、それからアフリカに行き冒険ぼうけん家になりたい。その時自分は四十さいだろうか、五十さいだろうか……。それでも自分はそれを実現じつげんするために、体を鍛えきた ておくのだ。わたしは兄にずっとついてきた。兄が好きだ……――
7. 弟はその冬、北海道大学の医学部志望しぼう担任たんにん提出ていしゅつしたという。
8. わたしは自分の身勝手さ、いいかげんさを思った。済まないす   と思っ∵た。長男であるわたしのわがままが、弟を泣かせ、孤独こどくにしていた。
9. あの夏の午後、川向こうの屋敷やしき町にわたしは弟と二人でせみ捕りと に行った。わたし達の町と違っちが てそこはへいの上にまで大きな木々が茂りしげ せみ捕りと 放題にいる。たちまち弟の持つかごはせみ一杯いっぱいになった。
10. 帰ろうとした時、屋敷やしき町の子供こども達に囲まれた。せみを置いて行けといわれた。四、五人の相手は身体も大きかった。弟は背後はいごわたしの上着を握りしめにぎ   ていた。わたしはだまっていた。すると背中せなかで急に弟が大声で泣き出した。子供こども達は笑った。そして弟の持っていたかごからせみをわしづかみにして、何ひきかを道に投げつけた……。
11. 家に帰ってから、わたしは弟をなじった。二度とおまえをどこにも連れて行かない、と言った。そういわれても弟はわたしのそばを離れはな ないで、しゃくりあげながらわたしを見ていた。そんな弟によけいはらが立ったわたしは、弟をなぐりつけた。弟はあやまりながらわたしを見つめていた。
12. ふとした時に、あの夏の日の弟の目を思い出し、日誌にっしの文字が浮かぶう  。あの少年達に立ち向かうこともしなかったひきょうな自分を思う。あやまることのできない自分が生きている。
13. せみかべにじっとしている。まどを開けたまま、わたしは電灯を消した。どこか他人とは思えぬ一ひきと、自分を情けないなさ   と思っている一人が暗闇くらやみの中にいる。
14. もう秋がそこまで来ている。


15.(伊集院いじゅういん静「夜半のせみ」)