長文 12.2週
1. 【1】ある日、五つになる孫坊主ぼうずからはがきがとどきました。文面は、「おようふく、ありがとう。そう」とただそれだけでしたが、この大小さまざまな十いく字かが、思い思いの方角をむいて、はがきからあふれ出そうに書かれていました。
2. 【2】これは、誕生たんじょう日のお祝いの洋服の礼状れいじょうなのです。「そう」というのは、草一郎いちろうの「草」で、「草、そう」と呼ばよ れているところからこう書いたものと思われます。わたしは、それがうれしくてうれしくて、長いこと自分の書斎しょさいに画びょうでとめておいたものです。【3】ところで、考えてみると、手紙というものは、そうやさしいものではありません。どこがむずかしいかと申しますと、結局、手紙にはあて名があるからだと、わたしは思っています。もっとも、あて名のない手紙もあります。【4】印刷されたあいさつじょうや通知じょうの類がそれです。わたしたちは、このすなをかむようなあて名のない手紙もずいぶん読まされます。
3. この事務じむ的な手紙の印刷をわたしたちもすることがあります。年賀ねんがじょうなどはもっともよい例でしょう。【5】これなどは、あて名のない手紙の代表的なものかもしれません。いま、この年賀ねんがじょうの余白よはくに万年筆でほんの一行、「なだから例のが届いとど ている。待っている」と書き添えか そ たとしましょうか。【6】このふぬけなはがきが、たちまちにして生き生きと血が通いだすのがわかりましょう。つまりは、この一行で、あて名が書かれたからのことです。これはしかし、あて名と同時に差出人があるということでもあります。【7】受け取る側からすれば、差出人のない手紙などは一向にありがたくありません。歌や俳句はいくの世界で、作者不在ふざいなどとよく申しますが、手紙にもずいぶん筆者不在ふざいのものを見かけます。【8】商用文でも、客筋きゃくすじにあてたものばかりでなく、商店から商店に出すものにも、それなりの筆者もあて名もあるべきだとわたしは思っています。
4. 今日の文章のおおかたは、印刷されるものとして書かれるとみてよいでしょう。【9】ところが、印刷されないということが前提ぜんていで書かれる文章があります。日記と手紙です。この日記と手紙を比べくら てみると、大分ちがったところがあります。一つ二つひろってみると、日記は自分以外の人には見せないたてまえで書かれるのに、手紙は相手に見せることがたてまえで書かれます。【0】日記の方は、どんな∵文章で書いても自分の心覚えですから一向にさしつかえありませんが、手紙の方はそうはまいりません。もっと困るこま ことは、日記の方は自分の手元に残っていて、いつどのようにでも処理しょりできるのに、手紙の方は、相手に渡しわた てしまわねばなりません。そして、相手がこれをどのように読もうと、自分はそれに関与かんよできないことです。それどころではありません。いつまでも保存ほぞんされて、わたしの「そう」のはがきのようにかべにはられて、毎日毎日ながめられるような仕儀しぎにもなりかねません。(中略ちゅうりゃく
5. 手紙の妙味みょうみ真骨頂しんこっちょうは、一対一で認めみと られるところにあります。あて名があって差出人があることです。ユーゴーが、のちの「レ・ミゼラブル      」の売れゆきを心配して出版しゅっぱん社に「?」と書いてやったところ、おりかえし「!」と返事がきたという有名なお話があります。本屋の返事の「!」は、すごく売れていますという意味です。以心伝心、不立文字ふりゅうもんじを地でゆくようなやりとりではありませんか。
6. わたしはこんな返事の書ける、こんな手紙がほしい。