長文集  12月3週  ★数年前のことに(感)  nu-12-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】数年前のことになるが、私は米国人
の言語学者T氏と東京で親しくなった。彼は
もともとアメリカ・インディアンの言語を専
門に研究していたが、終戦後の日本に軍人と
して駐留していたこともあって、最近では日
本語の歴史や方言にも興味を示しはじめ、遂
に奥さんと三人の娘をつれて東京にやって来
たのである。【2】奥さんはイタリア系の人
で、小学校の先生をしている。
 彼は古い日本家屋を一軒借り、畳に座蒲団
、冬は炬燵に懐炉、そして三人の娘を日本の
学校に入れるという、一家あげての見事な日
本式生活への適応ぶりだった。
 【3】ある日、アメリカの学者の習慣とし
て、彼は多くの言語学関係の友人、知人を家
に招待した。まずイタリア風のイカのおつま
みなどで、カクテルを済ませた後、別室で夕
飯ということになっ た。【4】一同が座に
つくと、テーブルには肉料理やサラダなどが
並べられ、面白いことに、白い御飯が日本の
ドンブリに盛りつけて出されたのである。
 【5】畳の上に座っていること、白い御飯
であること、T氏たちが日本式生活を実行し
ていることなどが重なり合って、一瞬私は、
この御飯を主食にして、おかずを併せて食べ
るのだという風に思ったらしい。【6】目の
前の肉の皿を取り上げて、隣の人に回そうと
しかけた時、私はT夫人のかすかにとまどっ
たような気配を感じ た。
 間違ったかなと思った私は、御飯は肉と一
緒に食べるのか、それとも御飯だけで食べる
のかと尋ねると、夫人は笑いながら、まず御
飯を食べて下さいと言う。
 【7】私はその時、はっと気が付いた。こ
の御飯は、イタリア料理ではマカロニやスパ
ゲッティと同じくスープに相当する部分なの
だと。
 はたして、それは油と香辛料で料理した、
一種のピラフのような∵ものだった。
 【8】食事というものは、いろいろな条件
に制約された文化という構造体の重要な部分
である。何をいつ食べるか、それをどう食べ
るか、食べていけないものは何か、といった
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ことに関して、どの国の食事にも、さまざま
な制限や規則が習慣として存在する。
 【9】カトリック教徒は金曜日には獣肉を
食べないし、イスラム教徒は豚肉を不浄なも
のとして決して食べないというようなことは
誰でも知っている有名な事実であろう。
 【0】しかしこのように、何かを食べては
いけないという明示的な規則は、外国人にも
比較的判りやすい。ところが自分の国の食物
と同じものが、外国の食事の中にありながら
、その食物と他の食物との関係が、自国の食
事の場合と違うという、つまり同一の食物の
食事全体における価値が、文化によって異な
るときに、難しい問題がおきるのである。
 白い米の御飯は、日本食の場合には、食事
の始めから終わりまで食べられる。というよ
りは、米の飯だけを集中的に食べることは、
むしろいけないこととされている。おかずか
ら御飯、御飯からお汁と、あちこち飛び回ら
なければ、行儀が良いとは言えないのであ 
る。
 そこで米の飯と他の食物との日本食におけ
る関係は、並列的・同時的であると言えよう
。お汁に始まり、香の物に至るまで、米を食
べてよいのである。
 ところが、食事の一段階ごとに一品ずつの
食物を片付けていく、通時的展開方式の性格
の強い食事文化もある。西洋諸国ではこの傾
向が強く、イタリアの食事も例外ではない。
ここでは麺類や米の料理などは、ミネストラ
と称して、本格的な肉料理が始まる前に済ま
せてしまうのだ。
 私がドンブリに盛られた白い御飯を見て、
おかずも一緒に食べようと思った失敗は、日
本の食事文化に存在するある項目を、別の∵
食事文化の中に見出したため、これを自分の
文化に内在する構造に従って位置づけ、日本
的な価値を与えようとしたことが原因なので
あった。
 文化の単位をなしている個々の項目(事物
や行動)というもの は、一つ一つが、他の
項目から独立した、それ自体で完結した存在
ではなく、他のさまざまな項目との間で、一
種の引張り合い、押し合いの対立をしながら
、相対的に価値が決まっていくものなのであ
る。
 自分の文化にある文化項目(たとえばある
種の食物)が、他の文化の中に見出されたか
らといって、直ちにそれを同じものだと考え
ることが誤りなのは、その項目に価値(意味
)を与える全体の構造が、多くの場合違って
いるからである。
 (中略)
 私たちが、外国語を学習する際にも、いま
述べたような具合に、自国語の構造を自分で
はそれと気づかずに、まず対象に投影して理
解するという方法をとりやすい。従っていろ
いろと食い違いが生じてくるのも当然である


(鈴木孝夫『ことばと文化』による)