長文集  4月1週  ○学問は世の役に立つかと  ra-04-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2017/03/14 10:48:57
【長文が二つある場合、音読の練習はどちら
か一つで可。】
 【1】生物の遺伝的複製技術という意味で
のクローニングは、衝撃ではない。誰でも知
っている、植物のいちばん簡単なクローニン
グは、「さし木」というかたちである。動物
の場合は、さし木というわけにはいかないが
、体の一部分から全体が再生するものはい 
る。【2】人間も含めた脊椎動物にとって、
最も身近なクローニングは、一卵性双生児で
ある。それほど頻繁に起こるわけではない 
が、しかしひとつの受精卵に由来し、しかも
同一の子宮で育つ一卵性双生児が存在するこ
とは、古くから知られている自然界の出来事
である。【3】この点では、体細胞の核移植
により作られ、母親とは別の胎内で育てられ
てできている羊や牛のクローンなどよりも「
完璧な」クローンであると言える。
 【4】羊や牛のクローニングが社会的に衝
撃を与えたのは、言うまでもなく動物の核移
植クローニングという技術が、人間にも応用
されるのではないか、そして、ひとりの人間
から、大量にコピーが作られるのではないか
という憶測と危惧のためである。【5】同じ
遺伝子だから同じ人格が作られるという憶測
である。一卵性双生児でさえ、それぞれに独
立した別個の人格を認めていることを考えれ
ば、このような遺伝子決定論が間違いである
ことは明白である。【6】にもかかわらず、
人間の大量コピーというイメージが一般化し
たのは、特に合衆国において、遺伝子を絶対
視し、環境因を軽視する傾向があるためでも
ある。【7】このことをスティーヴン・J・
グールドは、「生まれ」に気をとられるばか
りに「育ち」の重要さを見落としている社会
の危険性として早々と指摘していた。
 【8】「ドリー」のニュースをはじめ、そ
の後各国で報じられるクローニング成功のニ
ュースに接するたびに、わたしの脳裏に浮か
びあがる「複製」のイメージがある。一九九
三年(平成五年)秋、伊勢神宮で見た光景で
ある。【9】この年は二十年に一度の「式年
遷宮」の年にあたるが、そのクライマックス
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である「遷御(せんぎょ)」の日、内宮のな
かを撮影しながら、日の落ちる夕刻まで歩い
たことがあった。【0】二十年ごとに御正殿
(ごしょうでん)をはじめ、神宮すべての神
殿から神宝∵までを新しく作り替える「式年
遷宮」は、簡単に言えば神々のお引越しであ
るが、わたしには、それが形態的には一種の
複製の儀式のように見えたのである。建築的
には耐用年数にいたらない二十年というサイ
クルで、いっさいの神殿がまったく同じ技法
と形態のもとに作り替えられる理由について
は、いくつもの説があるが、現実的な意味で
説得力があるのは、「唯一神明造」と呼ばれ
る建築様式の知識と技法を伝承してゆくため
の期間として、二十年が適当であったのでは
ないかというものである。確かに平均寿命が
現在よりもずっと短かった時代に、親から子
へ、複雑で精緻を極めた建築技法を伝えるに
は、十年では短かす ぎ、かといって三十年
では長すぎたのかもしれない。いずれにして
も、「式年遷宮」という儀式の二十年という
社会的時間が、世代間の知識の伝承という時
間に関係しているという説は、できたばかり
の白木の神殿をレンズ越しに眺めながら、す
んなりと受け入れることができたのだった。
(中略)
 「式年遷宮」における広い意味での様式の
「複製」は、その背後に人生と社会が取りも
つ「時間性」があるが、核移植クローニング
による人間の「複製」には、この「時間性」
が欠落している。クローンである親から生ま
れた再クローンの牛が誕生している今日、ク
ローニングを重ねるごとに、細胞が若返る可
能性があるという研究報告さえ出てきている
が、結果の当否は別にして、現在わたしたち
が目の当たりにしているクローニングとは、
これまでの生物が性を介して営んできた「時
間性」に、根本的な変更を要請するものでは
ないだろうか。クローニングの登場によって
「適齢期」という言葉が死語になるとは思わ
ないが、しかしおしなべて生物は、「しかる
べきときに、しかるべきことを」しながら世
代を継いできたのだ。それは「しかるべきと
きに、しかるべきことを」という性の規則 
を、時間性として社会に組み込んできた人間
にとって、「適齢」の意味を改めて問い直さ
せるものではないかと思う。

 (港千尋の文章)∵
 【1】学問は世の役に立つかと考えるとき
、よく私が思い浮かべるのは、天動説がくつ
がえされ、地動説が確立されるまでのヨーロ
ッパの学者たちの探究です。地動説の萌芽は
、すでに十四世紀にノルマンディの学者、ニ
コラ・オーレムの書いたものにあったそうで
すが、【2】十六世紀に入って科学的にこれ
を一歩進めたのは、ポーランドのコペルニク
スで、けれどもキリスト教会の取り締まりを
恐れて、七十歳の死の数日前までその論文を
発表しなかったといわれています。【3】そ
してドイツのケプラー、イタリアのガリレイ
などがこの考えを継承してより実証に近づけ
ますが、教会からは弾圧を受け続け、一六一
六年には、教皇パウロ五世は地動説を聖書に
反するという理由で、断罪しています。
 【4】いうまでもなく、太陽が動くか地球
が動くかは、私たちの日常生活にとって、ま
さにどうでもいいことです。今でも人類の圧
倒的大部分は、お日様は東から昇って西へ沈
むと思っており、生活感覚としてそれはまっ
たく正しい。【5】天動説、つまり地球中心
主義をくつがえすために、教会の弾圧に耐え
、ずいぶんお金も使いながら、大勢の学者が
執念深く追究してきたことは、直接にはまっ
たく「世の役に立たない」ことです。
 【6】けれども、地動説が確立されたこと
で、人間の世界に対する認識が根本的に改め
られ、宇宙科学をはじめとする科学や技術が
どれだけ変わったか、その結果、地動説がど
れだけ「人間の役に立っている」かは、改め
ていうまでもないでしょう。
 【7】英語で学者のことをスカラー、学校
のことをスクールというのはご存じの通りで
すが、これはギリシャ語の「スコレー」「閑
(ひま)」という言葉に由来しています。つ
まり、学者というのは元来「閑人」であり、
学問は「閑人」のすることなのです。
 【8】小学校の就学率が一〇パーセントに
も満たない、私が住み込み調査をしていた頃
の西アフリカ内陸社会の村では、家族にとっ
て大事な労働力である子どもが、畑仕事の手
伝いもしないで、毎日朝から夕方まで学校に
行っているなどというのは、とんでもないこ
とで、学校はまさに「スコレー」の場なのだ
ということがよく分かりました。【9】学校
で教わることも、村の生活にとってすぐの役
には立たない、公用語のフランス語の読み書
きとか、それを使って習う、∵算数とか、歴
史とか、地理です。日本でも、多くの人々の
生活が貧しかった頃には、事情は同じでした
。【0】それなら、家の仕事を手伝わずに「
スコレー」の場である学校で、すぐ役に立た
ないことを勉強するのは無意味かといえば、
決してそうではなく、そのことを理解して、
家が貧しくても無理をして子どもを学校に行
かせた親は、日本にもいたわけですし、アフ
リカの村にだっているのです。
 それに、何の腹の足しにもならない知的好
奇心を満たすという、まさに「スコレー」と
結びついた人間の営みは、「ヒトという、こ
の不思議な生物」の、ヒト筋縄では片づかな
い本質をなすもので、それはアフリカの村の
、生活に恵まれない人々にとっても同じで 
す。
 ただ、だからといって、役に立たないこと
に甘んじていて良いとは、私はまったく考え
ません。たとえ役に立ち方が迂遠だといって
も、学者が現実の社会にいま起こっているこ
とに常に生き生きとした関心をもち、人々が
求めていることに共感するのは、現地調査に
よる体験知を重要な拠り所とする人類学者に
とって、不可欠のことです。とくに、人間社
会の草の根に生きる人々と共感をもった交わ
りをもつこと、そのことを通して、たとえそ
れが極めて長い迂回であっても、究極には役
に立つことにつながる学問を、私たちはする
ことができるのだと思います。

(川田順造「人類の地平から」より)