長文集  4月4週  ○私たちにとって、学校教育は  ra-04-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:26:51
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 私ども彫刻に志すものが、人の顔を見て先
ず心をひかれるのは、皮膚や髪()毛の色と
か、目鼻だち口もと等のこまかいところより
も、もっと根本的な彫刻的の美しさにありま
す。すなわち一つの塊りとしての美しさ、凸
凹、面、線等がつくる美しさであります。
 人の顔は、たとえば巧みを極めた、不思議
な技法でつくられた建築です。目鼻や口はこ
の建築の細部の装飾のようなものでしょう。
この建築の構造の不思議なこと、容易に人の
うかがい知るを許さぬ処です。この秘密を開
く事そこに私どもの苦しみも喜びも一にかか
っているのであります。
 先頃八月の初旬、信州に彫刻の講習会があ
りました。どういう方法でどんな風にやった
らよいものかと、最初に相談を受けました 
時、私は人の顔について研究する事をすすめ
ました。生人のモデルと塑造台と粘土を用意
して置く事、そして一人のモデルに研究者は
八人位を限りとし、各自モデルについて見る
ところを粘土を以ってつくって見る、粘土を
ひねってはモデルを見る、こういった方法で
勉強を続けて行ったら、その間にだんだん彫
刻の会得も出来て行くでしょうと答えて置き
ました。
 人の顔なら誰しも平生見馴れている処です
から、取りつきにくい事もないでしょう。し
かし実際にこうしてやり出して見たら、平生
見慣れている人間の顔が実はどんなにむつか
しいものかという事に気がつくでしょう。そ
れは平生ぼんやりものを見ているからです。
で、こうしてだんだんものを見る修行が積ま
れてくると、見馴れている人間の顔にも、実
に微妙にして複雑極まるいろいろの仕組みの
ある事がわかって来ましょう。して見れば、
毎日同じ顔の人間の顔を見てくらすという、
一見つまらなさそうな仕事も決して無意義で
はありますまい、となおいい添えて置きまし
た。
 考えて見ると私は人の顔を見る事が余程好
きのようです。以前、私は長らく苦しい境遇
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
に置かれていました。ほとんど慰めのない生
活でした。その中にあって、唯一の慰めは人
の顔を見る事でした。電車の中で向かい側に
いる人々の顔を見ているとすべてを忘れ∵る
事が出来ました。電車賃のない時は、麹町の
勤め先から本郷の自宅まで、空腹と疲労のか
らだをひきずって歩いて帰る事さえしばしば
ありました。その折りさえ途上に出会う沢山
の人々の顔が見られるので、どんなに苦痛を
やわらげられたでしょう。
 本を読むよりも、人の顔を見る方がどんな
によいか知れない、とよくその頃思ったもの
です。もっとも本を読む暇も多くは持たなか
ったけれど、本を読むよりも私は人の顔から
、どんなに多くの学問をしましたろう。
 相者は人の顔を見て、その人の過去現在未
来、その他いろいろの事をいいあてますが、
全く人の顔にはその人の事は何でもありあり
と書いてあるものです。ただこれを読む事が
大変むずかしいので す。
 友人中川一政氏がかつていった事に、芸術
家は作品を作るが、一方においておのずから
その顔を作ってゆくものであるとありました
が、まことに然りと思います。芸術家でなく
ても誰も人の生活はその顔をつくることにあ
るともいえます。
 人間が一生の苦心でつくられたその顔は、
その人と共にどこへ行くのですか。私は友人
知人の死面をいくつか石膏にとったことがあ
ります。死面はぬけがらです。その人の顔は
その人の死と共に何処かへいってしまうので
す。思うと全く神秘です。
 言葉は嘘をいう事ができましょうが、顔は
人を偽る事ができません。話を言葉だけで聞
く人は真相を誤る事がありますが、顔から聞
く時は先ず誤る事がありません。
 電話というものがあります。便利なものだ
とは思います。が、私はどうも電話を好みま
せん。それはなぜかと考えて見るに、相手の
顔が見えないという事に大部分その原因があ
るようです。ほんの通り一遍の用談だけは済
まされますが、少しこみ入った話になると電
話では充分通じません。こう感じる人は恐ら
く私ばかりではなかろうと思います。で、い
かに私どもは平生顔によって人と話している
かという事がわかります。顔がものをいい、
顔がものを聞く、この働きは全く不思議です


(石井鶴三『顔』)∵
 【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必
要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの
実生活の経験の積み重ねに任せるのではな 
く、なぜ教育のための特別な場所が必要なの
か。この問いかけに対しては、いくつかの理
由が考えられます。
 【2】第一に、世界はあまりにも広く、私
たちがそのすべてを経験することはできない
からです。しかも、私たちが世界と呼んでい
るものの多くはすでに失われた過去であり、
現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には
存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の
記憶の中にしかないものがほとんどでしょう
。経験は記憶によって濾過され、それと照合
されて、初めて経験として完成されます。
 森鴎外の短編小説『サフラン』に、サフラ
ンをめぐる次のような思い出話が出てきます
。【4】この植物の名は本で早くから知って
いたが、まだ実物を見たことがない。そこで
医師であった父親に頼み、薬棚の抽斗から乾
燥したサフランを出してもらう。「名を聞い
て人を知らぬと云うことが随分ある。人ばか
りではない。【5】すべての物にある。」と
いった感慨を綴った作品ですが、考えてみれ
ば、われわれがいうところの現実とは、半ば
以上、森鴎外におけるサフランのようなもの
ではないでしょうか。
 第二に、私たちが何らかの現実行動をうま
くなしとげるために は、行動をいったん棚
上げし、目的を一時保留して行動しなければ
ならないからです。【6】言い換えれば、現
実行動にあたって失敗を避けるには、まずも
って練習をしなければなりません。野球選手
のバットの素振(すぶ)りが好例でしょう。
飛んで来てもいないボールを相手にバットを
振ります。そのことによって、彼はバッティ
ングという行為のプロセスを意識し、身に付
けようとしているわけです。
 【7】私たちの行動能力は、単純な経験を
いくら繰り返しても、決して高まることはあ
りません。現実行動は練習のうえで初めて成
り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使
するプロセスを絶えず見直し、身に付け直さ
なければならないのです。【8】学校という
ものは、その意味で、現実行動からひとまず
離れて、行動のプロセスを教える場といって
もいいでしょう。つまり教室は行動の場では
なくて、練習の場なのです。∵
 また、私たちが行動するためには型を持つ
必要があります。【9】武術一つを取り上げ
ても明らかでしょう。刀をただ振り回してい
れば強くなるというものではありません。面
を打ち、籠手(こて)を打ち、突きを入れる
という型をまず身に付け、それが、まるで無
意識であるかのように流露してくるところに
武術は成立します。【0】型は、行為のプロ
セスを支えてくれるのです。
 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲
しいときにはなりふりかまわず泣きたくなる
ものですが、そこに悲しみ方の型が入ってき
たとき、初めて私たちは悲しみに耐える能力
も身に付けることができるのです。芥川龍之
介の短編小説『手巾(ハンカチ)』に、息子
を亡くしたばかりの婦人が端然と客を迎えな
がら、しかし、机の下では「膝の上の手巾(
ハンカチ)を、両手で裂かないばかりにかた
く、握っている。」という場面があります。
つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっ
きから、全身で泣いていたのである。」とあ
るように、彼女は「息子を亡くした母」とい
う型を、あるいは役をその場で演じることに
よって、身も世もない悲しみに耐えることが
できたし、また醜態をさらさずに済んだわけ
です。
 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が
経験からは直接に学べないからです。
 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地
動説が正しいということを知っています。し
かし、だれ一人として地球が太陽の周りを回
っているのを見た人もいなければ、その動き
を実感した人もいません。日常では、太陽が
朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みま
す。昔の人も現代人もそれを経験上知ってい
ますが、真実はそうではないということを、
知識として身に付けているのが現代人でしょ
う。

(山崎()正和「文明としての教育」の文章
による)