長文 4.4週
1.【長文が二つある場合、読解問題用の長文は一番目の長文です。】
2. 私ども彫刻ちょうこくに志すものが、人の顔を見て先ず心をひかれるのは、皮膚ひふ毛の色とか、目鼻だち口もと等のこまかいところよりも、もっと根本的な彫刻ちょうこく的の美しさにあります。すなわち一つのかたまりりとしての美しさ、凸凹おうとつ、面、線等がつくる美しさであります。
3. 人の顔は、たとえば巧みたく を極めた、不思議な技法でつくられた建築です。目鼻や口はこの建築の細部の装飾そうしょくのようなものでしょう。この建築の構造の不思議なこと、容易に人のうかがい知るを許さぬ処です。この秘密を開く事そこに私どもの苦しみも喜びも一にかかっているのであります。
4. 先頃さきごろ八月の初旬しょじゅん、信州に彫刻ちょうこくの講習会がありました。どういう方法でどんな風にやったらよいものかと、最初に相談を受けました時、私は人の顔について研究する事をすすめました。生人のモデルと造台と粘土ねんどを用意して置く事、そして一人のモデルに研究者は八人位を限りとし、各自モデルについて見るところを粘土ねんどを以ってつくって見る、粘土ねんどをひねってはモデルを見る、こういった方法で勉強を続けて行ったら、その間にだんだん彫刻ちょうこくの会得も出来て行くでしょうと答えて置きました。
5. 人の顔ならだれしも平生見馴れみな ている処ですから、取りつきにくい事もないでしょう。しかし実際にこうしてやり出して見たら、平生見慣れている人間の顔が実はどんなにむつかしいものかという事に気がつくでしょう。それは平生ぼんやりものを見ているからです。で、こうしてだんだんものを見る修行が積まれてくると、見馴れみな ている人間の顔にも、実に微妙びみょうにして複雑極まるいろいろの仕組みのある事がわかって来ましょう。して見れば、毎日同じ顔の人間の顔を見てくらすという、一見つまらなさそうな仕事も決して無意義ではありますまい、となおいい添えそ て置きました。
6. 考えて見ると私は人の顔を見る事が余程好きのようです。以前、私は長らく苦しい境遇きょうぐうに置かれていました。ほとんど慰めなぐさ のない生活でした。その中にあって、唯一ゆいいつ慰めなぐさ は人の顔を見る事でした。電車の中で向かい側にいる人々の顔を見ているとすべてを忘れ∵る事が出来ました。電車賃のない時は、麹町こうじまちの勤め先から本郷の自宅まで、空腹と疲労ひろうのからだをひきずって歩いて帰る事さえしばしばありました。その折りさえ途上とじょうに出会う沢山たくさんの人々の顔が見られるので、どんなに苦痛をやわらげられたでしょう。
7. 本を読むよりも、人の顔を見る方がどんなによいか知れない、とよくそのころ思ったものです。もっとも本を読むひまも多くは持たなかったけれど、本を読むよりも私は人の顔から、どんなに多くの学問をしましたろう。
8. 相者は人の顔を見て、その人の過去現在未来、その他いろいろの事をいいあてますが、全く人の顔にはその人の事は何でもありありと書いてあるものです。ただこれを読む事が大変むずかしいのです。
9. 友人中川一政氏がかつていった事に、芸術家は作品を作るが、一方においておのずからその顔を作ってゆくものであるとありましたが、まことに然りと思います。芸術家でなくてもだれも人の生活はその顔をつくることにあるともいえます。
10. 人間が一生の苦心でつくられたその顔は、その人と共にどこへ行くのですか。私は友人知人の死面をいくつか石膏せっこうにとったことがあります。死面はぬけがらです。その人の顔はその人の死と共に何処かへいってしまうのです。思うと全く神秘です。
11. 言葉はうそをいう事ができましょうが、顔は人を偽るいつわ 事ができません。話を言葉だけで聞く人は真相を誤る事がありますが、顔から聞く時は先ず誤る事がありません。
12. 電話というものがあります。便利なものだとは思います。が、私はどうも電話を好みません。それはなぜかと考えて見るに、相手の顔が見えないという事に大部分その原因があるようです。ほんの通り一遍いっぺんの用談だけは済まされますが、少しこみ入った話になると電話では充分じゅうぶん通じません。こう感じる人は恐らくおそ  私ばかりではなかろうと思います。で、いかに私どもは平生顔によって人と話しているかという事がわかります。顔がものをいい、顔がものを聞く、この働きは全く不思議です。

13.(石井いしい鶴三つるぞう『顔』)∵
14. 【1】私たちにとって、学校教育はなぜ必要なのか。別の言い方をすれば、それぞれの実生活の経験の積み重ねに任せるのではなく、なぜ教育のための特別な場所が必要なのか。この問いかけに対しては、いくつかの理由が考えられます。
15. 【2】第一に、世界はあまりにも広く、私たちがそのすべてを経験することはできないからです。しかも、私たちが世界と呼んでいるものの多くはすでに失われた過去であり、現実と呼んでいるものの半ば以上は現実には存在しません。【3】歴史と呼ばれ、人類の記憶きおくの中にしかないものがほとんどでしょう。経験は記憶きおくによって濾過ろかされ、それと照合されて、初めて経験として完成されます。
16. 森鴎外おうがいの短編小説『サフラン』に、サフランをめぐる次のような思い出話が出てきます。【4】この植物の名は本で早くから知っていたが、まだ実物を見たことがない。そこで医師であった父親に頼みたの 、薬たな抽斗ひきだしから乾燥かんそうしたサフランを出してもらう。「名を聞いて人を知らぬと云うい ことが随分ずいぶんある。人ばかりではない。【5】すべての物にある。」といった感慨かんがい綴っつづ た作品ですが、考えてみれば、われわれがいうところの現実とは、半ば以上、森鴎外おうがいにおけるサフランのようなものではないでしょうか。
17. 第二に、私たちが何らかの現実行動をうまくなしとげるためには、行動をいったん棚上げたなあ し、目的を一時保留して行動しなければならないからです。【6】言い換えれい か  ば、現実行動にあたって失敗を避けるさ  には、まずもって練習をしなければなりません。野球選手のバットの素振すぶりが好例でしょう。飛んで来てもいないボールを相手にバットを振りふ ます。そのことによって、かれはバッティングという行為こういのプロセスを意識し、身に付けようとしているわけです。
18. 【7】私たちの行動能力は、単純な経験をいくら繰り返しく かえ ても、決して高まることはありません。現実行動は練習のうえで初めて成り立ちます。どんな技術であれ、技術を駆使くしするプロセスを絶えず見直し、身に付け直さなければならないのです。【8】学校というものは、その意味で、現実行動からひとまず離れはな て、行動のプロセスを教える場といってもいいでしょう。つまり教室は行動の場ではなくて、練習の場なのです。∵
19. また、私たちが行動するためには型を持つ必要があります。【9】武術一つを取り上げても明らかでしょう。刀をただ振り回しふ まわ ていれば強くなるというものではありません。面を打ち、籠手こてを打ち、突きつ を入れるという型をまず身に付け、それが、まるで無意識であるかのように流露りゅうろしてくるところに武術は成立します。【0】型は、行為こういのプロセスを支えてくれるのです。
20. 日常の作法もまた同様でしょう。人間、悲しいときにはなりふりかまわず泣きたくなるものですが、そこに悲しみ方の型が入ってきたとき、初めて私たちは悲しみに耐えるた  能力も身に付けることができるのです。芥川あくたがわ龍之介りゅうのすけの短編小説『手巾ハンカチ』に、息子を亡くしたばかりの婦人が端然とたんぜん 客を迎えむか ながら、しかし、机の下では「ひざの上の手巾ハンカチを、両手で裂かさ ないばかりにかたく、握っにぎ ている。」という場面があります。つまり、「顔でこそ笑っていたが、実はさっきから、全身で泣いていたのである。」とあるように、彼女かのじょは「息子を亡くした母」という型を、あるいは役をその場で演じることによって、身も世もない悲しみに耐えるた  ことができたし、また醜態しゅうたいをさらさずに済んだわけです。
21. 教育が必要な理由の最後は、多くの知識が経験からは直接に学べないからです。
22. 現代の先進社会の人間ならば、だれでも地動説が正しいということを知っています。しかし、だれ一人として地球が太陽の周りを回っているのを見た人もいなければ、その動きを実感した人もいません。日常では、太陽が朝は東の空に上って、夕方は西の空へ沈みしず ます。昔の人も現代人もそれを経験上知っていますが、真実はそうではないということを、知識として身に付けているのが現代人でしょう。

23.(山崎正和「文明としての教育」の文章による)