長文集  5月2週  ★何を読むかという前に(感)  ra-05-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】何を読むかという前に、まず何はと
もあれ、夢中で読むという体験を一度味わう
必要があります。読む対象はそれぞれの人に
よってことなりますが、とにかく面白く楽し
い本であることが必要です。【2】そして一
度読む楽しさを知ったら、あとは、この面白
さの内容を次第に高めることが、楽しさを長
つづきさせる秘訣で す。たとえば推理小説
だけを読んでいると、最後にはせっかく面白
かった本も、何となく空虚な感じがしてきま
す。
 【3】一度読む楽しさを知った人は、あと
は放っておいても、読書の本能ともいうべき
ものによって、自分にぴったりした本をもと
めてゆくものです。また百冊の本のリストに
よって自分にふさわしい本を捜すようになる
のも、この時期です。【4】この時期になれ
ば、百冊のリストを見ても恐れをなすどころ
か、逆に面白そうな本がこんなにならんでい
てくれることに、ぞくぞくした楽しさを感じ
るようになるものです。ですから、読書の楽
しさを知るということが、私たちが最初に体
験しなければならないことになるのです。
 【5】ある人は訊ねるかもしれません。「
いまはテレビや映画や劇画によって読書以上
の楽しみを味わえる時代なのに、なぜ古臭い
読書などに執着するのですか」と。
 しかしテレビを見るのと本を読むのとは別
々のことです。【6】テレビは私たちを自分
の外へ引き出しますが、読書は自分の中へ引
き戻します。それに読書はいつどこででもで
きます。汽車の中で も、飛行機の中でも、
昼でも、夜なかでも一冊の本さえあれば、自
由に別世界に入りこむことができます。【7
】同じ本でも、小説は劇画より、もっと自由
自在に豊かに想像力の翼に乗って羽ばたくこ
とができるのです。
 読書の楽しさの中で最大のものは、この自
由感だということもできます。本の扉を開け
ると、もう向こうはフランスだったり、江戸
時代の日本だったり、幻想の世界だったりす
るわけですから。【8】そこでは、私たちの
人生とは別の人生がはじまっています。別の
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
人々と出会い、数奇な運命をたどることがで
きるのです。深い悲しみや喜びを味わうこと
もできますし、人生の裏面の赤裸(せきら)
なすがたを見て戦慄することもあります。私
たちの魂は地獄を通り天国を通ります。【9
】泣いている女にも会います。打ちひしがれ
た男にも出会∵います。幸福な人にも恋に悩
む人にもぶつかりま す。私たちは思わぬ人
生の寂しさや、孤独感や、人々の愛を体験し
ます。
 こうして一冊の本を読み終えたとき、私た
ちは読みはじめる前とは、別人になったよう
に思えることがあります。【0】私は『罪と
罰』を読んだとき、そんな気持ちを味わいま
した。しかしこうした経験は読書以外には絶
対に味わえません。こうなると、読書は単な
る楽しさから、もっと深いもっと複雑なもの
に変わってゆくことになります。
 読書の対象はこうして詩や小説から哲学や
宗教へ、神話や心理学へ拡がってゆきます。
しかし読書が生涯を通じて私たちのそばにあ
るのは、それが何よりも楽しいことだからで
す。楽しくなければ何にもなりません。その
証拠には、何か無理をして勉強し、我慢をし
て読書をしていた人は、目的を達すると、け
ろりと読書などしなくなるものです。
 私は自分でもスポーツが好きですし、映画
もよく見るほうです。音楽なしでは一日もい
られません。それでも、なお読書の楽しみを
皆さんに味わってほしいと思うのは、読書に
よって、そうしたスポーツや映画や音楽の楽
しみが、一段と豊かになり深くなるものだか
らです。

(辻邦生『永遠の書架にたちて』による)