長文集  6月3週  ★現代では学術研究の場において(感)  ra-06-3
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】現代では学術研究の場においてだけ
でなく、企業活動の場においてもまた専門化
がすすんでいます。それぞれの場で陣頭にた
って仕事を押し進めているのは専門家たちで
す。現代は、まさに専門家たちの時代である
というべきかもしれません。【2】それだけ
にまた現代は「専門バカ」たちの時代となる
危険性もおおいに孕んでいるのです。
 ただの専門家というのは、いわば塀に囲ま
れた住居の中だけで外からの情報を得ること
もなく、生活している人みたいなものです。
【3】塀の中のことは四六時中よく見て廻(
まわ)っているのですが、塀の外はなにも見
えないし、かといって外へ出かけていく余裕
もないのです。専門家は自分の専門とする事
柄についてはよく知っていても、ただそれだ
けだったらほとんどすべての事柄については
無知だということになります。
 【4】ところが、自分の専門外の事柄につ
いてある程度理解することができ、思慮分別
を伴った言論を展開できる人たちがいるので
す。その言論は当の専門家をもうなずかせた
り、一考を促したりすることがあるのです。
【5】そういった言論の基盤となるのは、何
なのでしょうか。それはもはや専門的な知識
や技術ではなく、常識や一般的教養なのです

 アリストテレスは、『トピカ』で、大衆を
相手に話し合うには、「エンドクサ」(通念
)に基づいて言論を展開することが有効だと
しています。【6】大衆を相手にした場合、
大衆の「ドクサ」(見解・思いなし)を枚挙
して、ほかの人たちの意見にではなく、かれ
ら自身の意見に基づいて論ぜよ、ということ
です。
 大衆というのは、ここでは専門的知識をも
たない人たちのことを意味しています。【7
】私たち一人一人が皆、自分の専門外の事柄
に関してはそういう大衆の一人だといえるで
しょう。専門家がきわめて精確な専門的知識
に基づいて厳密な論証をおこなっても、専門
家以外の大衆には難しくてついていけないわ
けです。
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 【8】「エンドクサ」「人々に共通な見解
」というのは、常識にほかなりません。人が
自分の専門外の事柄について考え、論じると
きに拠りどころとなるのは常識です。それば
かりではありません。【9】専∵門家が自分
の専門の事柄について語る場合でも、専門的
知識をもたない大衆を相手にするならば、常
識を通じてでなければわかってはもらえない
でしょう。常識というのは、時代によっても
社会によっても異なります。【0】たとえば
昔は「地球は不動である」というのが常識で
あったのが、いまは「地球は動く」というの
が常識です。しかしまた、たとえば基本的人
権の擁護というのはいまや世界の常識であっ
ても、その人権の内容が異なるとすれば、基
本的人権に関するある国での常識が他の国で
は通用しないこともあるわけです。
 常識は専門的知識ほど精確ではありません
。また常識がすべて専門的知識に由来するわ
けでもありません。たんに皆がそう思ってい
るというだけの常識もあります。しかし専門
的な事柄に関する常識というのは、専門家の
得た知識が専門家でない大衆にもわかりやす
く通俗化されることによって形成されるので
す。そのような常識は知識に次ぐ確かさをも
つということができるでしょう。常識は非専
門家(大衆)からの、または非専門家向けの
、あるいは非専門家どうしの、言論の基盤な
のです。
 常識は言論の大きな基盤です。けれども上
手な言論というだけでなく、知恵を伴う言論
ということになると、教養が基盤となるでし
ょう。
 教養は専門的技術(知識)と区別されてい
ます。プラトンは、その違いをいくつかの対
話篇のなかで指摘しています。たとえば『プ
ロタゴラス』では、人が読み書きの先生や竪
琴の先生や体育の先生から学ぶものは、一個
の素人としての自由人にふさわしいものとし
て、教養のために学ぶのだ、ということが言
われています。医術や彫刻術のように、専門
家(本職の師匠)になるための技術として学
ぶのではないということなのです。
 教養というのは、その道の専門家になるた
めの技術(知識)として学ばれるのではなく
、一個の素人としての自由人にふさわしいも
のとして学ばれるのだということが注目され
ます。

(浅野楢英(ならひで)『論証のレトリック
』による)