長文集  6月4週  ○一体、人間の頭の良さの  ra-06-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2015/03/15 14:28:02
【長文が二つある場合、読解問題用の長文は
一番目の長文です。】
 ある夏の、ひどくむし暑い日のことだった
。上の兄は学校へ行 き、私と下の兄とだけ
が残されて、退屈していた。二人はただ目的
もなく大堰ばたの方へ歩いて行った。大堰ば
たの水は流れが止まったように淀んでいて、
岸には雑草がしげり、日ざしはじりじりと照
りつけていた。そのとき兄は水面に近く、鮒
を見つけたのだった。
 鮒は水温が上がり過ぎたために、苦しがっ
て水面に浮かび、口をあけて喘いでいた。そ
れが意外にも五匹、六匹(ぴき)……十匹(
ぴき)もいた。私たちは興奮した。兄は流れ
の岸にうずくまり、手近なところに浮いてい
る小鮒(こぶな)をそっと両手で追ってみ 
た。鮒は逃げるだけの気力もなく、黙って兄
の手に捕らえられた。それからが大変だった
。水から上げたら魚は死んでしまう。鮒を水
の中で捕らえたまま、兄はどうすることもで
きなかった。兄は顔だけをふり向けて、
「おい、うちへ帰って何か入れ物を持って来
い。あき缶でも何でもいい。大急ぎだぞ」と
言った。
 私は柔順な弟だった。いつも兄たちの命令
には絶対服従だった。私は言いつけに従って
いきなり走り出した。私自身、生きた鮒を持
って帰りたくもあった。だが、そこから私の
家までは二百メートル以上もあった。私は日
盛りの、人通りの絶えた乾いた道を小さな下
駄を鳴らして夢中になって走った。汗を流し
、暑さに喘ぎながら家まで帰りつくと、あき
缶を一つ見つけ出して、また同じ道を引き返
した。その途中で、石につまずいて転び、膝
をすりむいてしまっ た。私は痛みに耐え、
泣きながら走った。それほど私は柔順な弟だ
った。そして兄を怨んでいた。川岸まで駆け
戻ってみると、兄はまだ元のところにうずく
まって、一匹の小鮒(こぶな)を両手でつか
まえていた。兄は家に帰ってから、(おれが
獲(と)った鮒だ)と言った。私はそれが不
満だった。
 鮒よりも、私はトンボが好きだった。一番
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大型のオニヤンマは大型という魅力はあるが
、黒と黄色のだんだら縞で下品だった。つか
∵まえたことのうれしさはあるが、少年の心
を陶酔にさそう「美」がなかった。そこへい
くと、ギンヤンマという、あの中型のヤンマ
の美しさは私をうっとりさせた。私はほとん
どヤンマを尊敬していた。
 夕方になると、時として私の家の前の道路
に、無数のヤンマが飛んでくることがあった
。おびただしい数だった。ところがその時刻
がちょうど私の家の夕食だった。夕飯を食べ
ながら、私は気が気ではない。箸を投げ出す
なり土間に飛び降り、下駄を突っかけると同
時に竹竿をつかんで駆け出す。ヤンマの群れ
の中で、やみくもに竹竿をふりまわすと、羽
が切れたり、尾が切れたりして落ちてくる。
時として全身無傷のヤンマを取ることがあっ
た。これは私たちの宝物だった。魚籠(びく
)に入れて、布でふたをして、持って帰る。
小部屋を閉め切って、ヤンマを飛ばしてみる
。その飛び方の優雅さに私は見惚れるのだっ
た。

(石川達三「私ひとりの私」)∵
 【1】一体、人間の頭の良さの特徴とは何
か。多くの研究者が、人間の知能の本質はそ
の社会性にあると考えている。養老孟司先生
は、「教養とは他人の心がわかることである
」としばしば言われ る。他人と心を通じ合
わせ、協力して社会をつくり上げることが、
人間の頭の良さの本質である。
 【2】頭の良さが社会性と深く関わるとい
うことを、意外に感じる人もいるかもしれな
い。学校で勉強ができる子どもはなんとなく
ツンと澄ましていて、あまりできない子のほ
うがかえって他人と温かく接することができ
る。【3】一般にはそのような思い込みがあ
るかもしれないが、現代の脳科学では、頭の
良さとはすなわち他人とうまくやっていける
ことであると考えるのだ。
 他人の心を読み取る能力を、専門用語では
「心の理論」という。コンピュータは、いく
ら計算が速くできたとしても、心の理論を持
たない。【4】他人の心を読み取り、初めて
会う人ともいきいきとしたやりとりができる
といった「コミュニケーション」の能力にお
いては、人間はコンピュータよりもまだまだ
遙かに優れているのである。
 人間の社会的知性を、他の動物に比べてみ
ると、どうだろうか。【5】人間以外にも、
社会をつくる動物はいる。アリは高度に発達
した分業体制を持つし、猿の群れの中には社
会的地位のようなものがある。しかし、これ
らの動物に比べてみても、人間の社会的知性
が特に優れていることは疑いない。
 【6】現在までに得られている知見を総合
すると、厳密な意味で他人の心を読み取るこ
とができるのは、全ての動物の中で人間だけ
であるとされる。「惻隠の情」「あうんの呼
吸」「本音と建前」といった言葉に表れてい
るように、相手の考えが身振りや周囲の状況
からは容易に判断できない場合でも、目には
見えない相手の心を読み取る能力に大変優れ
ている。
 【7】そのような能力は、動物にもあると
考える人もいるかもしれない。ペットを飼っ
ている人は、うちのポチ、うちのミイちゃん
は私の心がわかるのよ、と反論したくなるか
もしれない。
 犬は、人間の行動から意図を察知する能力
に長けている。【8】飼い主が見た方向に自
分も目を向けたり、手の動きが示すほうに走
ったりといった行動は、知能が発達している
とされるチンパンジーよりもむしろ敏捷で反
応が良い。∵
 どうして、犬は人間の意図を読み取れるよ
うになったのか。【9】人類の歴史の中で、
犬がペットとして飼われるようになった経緯
は明確ではないが、犬と人間がお互いの存在
を「許容」するようになったことが一つの鍵
であったと考えられている。
 野生の動物は、お互いに対する警戒心に満
ちている。【0】異種の動物はもちろん、同
種の仲間にさえ容易に警戒を解こうとはしな
い。目を合わせれば闘ったり、逃げだしたり
することが普通であ る。そのような状況で
は、相手の振る舞いに合わせて自分が協力し
たり、微妙なニュアンスを読み取ったりとい
った認知能力は発達しない。
 英語に「犬は人間の最良の友」という表現
がある。ある時期か ら、犬と人間がお互い
の存在を許容し、リラックスしたままで「一
緒にいること」が可能になったことが、犬と
人間の「社会的な関係性」が発達する上で大
切なきっかけとなったと、科学者たちは考え
ているのだ。
 犬と人間だけではない。人間同士の社会的
知性の進化において も、お互いの存在を受
け入れ、共生することが本質的に重要であっ
たとされる。
 異質な他者を受け入れ、共生することが「
頭が良くなる」ことにつながる。最先端の科
学の理論が描き出したそのようなシナリオに
は、世知辛くなっていく現代を生きる人間が
耳を傾けるべきメッセージが潜んでいる。
 一緒に仲良くいることで頭が良くなる。私
たち人間は、そのようにして「万物の霊長」
になったのである。

(茂木健一郎「それでも脳はたくらむ」)