1. 【1】「こいつ、よくもひとのことをぶったな!」子供たちが
口喧嘩をしているうちに、一人が相手につい手出しをしたときなど、ぶたれた方がこんな
怒りの声をあげるのをよく聞く。ここでの「ひと」とは明らかに話者が自分のことを言っていると
解釈できるが、しかし考えてみると不思議だ。
2. 【2】どうして
普通は自分以外の人間を指すときに使う「ひと」という言葉が、この場合は自分のことを指すのだろうか。
3. 同じような「ひと」の使い方は、「あなた、よくもひとを
騙したわね!」とか、「
黙ってひとのものを使わないでよ!」などにも見られる。【3】しかし何かを自分がしたいときに「課長、それは
是非ひとにやらせて下さい」などとは言えない。
4. このように見てくると、現代の日本語には、「ひと」ということばを、
状況により
自称詞として使うことを可能にする法則のようなものがあるらしい。それはいったいどんな性質のものだろうか。
5. (中略)
6. 【4】現代日本語において、話者が相手に対して自分のことを「ひと」と
称することができるのは、「話者が相手に対して自分の権利や尊厳が
侵害されたことに対する不満、
焦燥、
怒り、
拒否といった心理的対立の状態にある場合に限られる」というのが私の結論である。
7. 【5】そこで次に考えなければならないことは、いったいどうして
普通は第三者を指して言うことばである「ひと」が、以上述べたような条件の下では、話者が自分自身を
称する自称詞、つまり
一人称代名詞のように用いられるのかという、記号論的な問題である。
8. 【6】私は
既にこれまでいろいろな論文や著書の中で、現代日本語に見られる言語的自己規定の問題を
扱ってきた。つまり日本人はどのような場合に、いかなる言葉を使って自分を表現しているのか、そしてその記号論的なしくみはどのようになっているかといった問題である。
9. 【7】その次に私が
一貫して強調してきたことは、日本語には相手
依存の相対的自己規定の
傾向がきわめて広く見られるということであった。平たく言えば、日本人は話の相手が
誰でどのような人かに∵よって、自分を
称することばを原則的に変えているということである。(中略)
10. 【8】また英語を初めとするヨーロッパの諸言語は、言語的自己規定の点では、むしろ相手
依存型の
対陣、つまり絶対的自己規定を
特徴とするが、それでもよく見ると、親族用語を使って行なう相対的な自己規定が、特別な条件の下では可能である。
11. 【9】しかしこのようなことを念頭においても、なおかつ日本語における相対的自己規定の
徹底ぶりは、これを日本語の大きな特色の一つに挙げてもおかしくないほどである。【0】
12. たとえば、多くの家庭に見られる、父親が子供に対して自分のことを「お父さん」あるいは「パパ」と言う
自称のしくみは、自分と相手をともに
含む親族関係という
枠組みをまず設定し、ついでその体系内の相手の立場、つまり相手の視点から自分自身の座標を逆に規定する相手
依存の相対的自己規定である。(中略)
13.
自称詞としての「ひと」は、話者が自分を相手の立場から見るだけでなく、その上、
普通には設定される自分と相手をともに
含む共通のいかなる
枠組をも否定して認めないとき、初めて使用が可能となる。この段階で話者は対話の相手にとって完全な他者、
縁もゆかりもない他人、つまり「ひと」となるからだ。
14. 話者が「ひと」を
自称詞として使うときの気持は、「おれはお前にとっては無関係の他人だ。つまりお前の力、権限、
干渉、関心の
範囲外の人間だぞ。つまらぬよけいなことを言うな」といったもので、それまで存在していた二人を包む共通の
枠を、この一言で
壊してしまうのである。
15. そこで次のように言えると思う。「よくもひとをぶったな」や「ひとの気も知らないで何さ」のような文に見られる
自称詞「ひと」は、対話中の話者が、相手から何かしらの
被害、権利
侵害を
蒙ったと感じ、相手に対して心理的な対立状態に入り、相手に向かって共感同調的なつながりを断つことを示す、相手
依存型の言語的自己規定である、と。
16. (
鈴木孝夫『教養としての言語学』)