【1】そもそも動物の記号は、語を組み合 わせた文ではない。なるほど、「文」という 概念を使って説明するなら、ミツバチの八の 字飛行という記号は、「蜜がここにある。」 という文を省略した一語文であり、群れの端 (はし)にいる個体が発する天敵の警戒記号 は「敵が接近中だ。」という一語文とみなす こともできる。【2】しかし、動物のコミュ ニケーションで用いられる記号は、パーツを 組み合わせて作られた文ではないし、また記 号をさらに組み合わせて、新たな記号列が作 られることもない。 ところが人間の言語は、そうではない。【 3】なるほど、「テ キ」という語は、敵を 指示しはする。しかし、単に「テキ」と呟い ただけでは、いまだ確定した意味をもちえな い。「いる/いな い」、「来る/来ない 」、「多い/少ない」という別の語(述語) と組み合わせられて文が形作られたとき、「 テキ」という語は、初めて確定した意味をも つ。【4】すなわち人間の言葉は、文という まとまりの中で、初めて確定的な意味をもつ 。 しかるに文というまとまりは、人間の言語 においては、語を自由に組み合わせて、任意 の文を作ることができる。その結果、実際に は起きていないことを述べる文も、次々に作 ることができる。【5】いま一頭の小ぶりの 天敵が近付いている、としよう。このとき、 「テキ、いない。」、「テキ、多い。」、「 テキ、大きい。」といった多くの文は、すべ て偽(ぎ)となる。これらの文は、目下の状 況では偽(ぎ)である。【6】しかし、私た ちは、それらの文の意味を理解できる。それ はほかでもない、それらの文が真となるよう な状況を考えることができるからである。こ のように私たち人間 は、語を自由に組み合 わせて、任意の文を作りうるがゆえに、実際 には起きていないことについて考えることも できる。【7】いや、考えざるをえないので ある。「果実」という語と「木に生る」とい う語を組み合わせて、「果実が木に生る。」 という文を作れば、これは、われわれの世界 |
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で真な文だが、「金」という語を組み合わせ た「金が木に生る。」という文は偽(ぎ)で ある。【8】しかし、「金が木に生る。」と いう文が意味をもつ限り、「金の生る木」と いう語も意味をもつ。 このように、言語を用いた人間のコミュニ ケーションにあって は、言葉は、現にない ものについてメッセージをつくるためにも用 いられる。【9】人間の言葉は、実際には存 在しないものを、思考の対象として、言わば 呼び出す、という意味で「非在の現前」であ る。人間の言語は、実際には存在しないもの についての思考を可能に∵し、そうした思考 の交換を可能にする。【0】こうした言語に よってコミュニケーションが進行することに よって、人間の協業の仕方は、動物たちの協 業とはまったく異なるあり方をしている。こ のことが、人間としての協業の根幹に、極め て固有の刻印を与えている。 (大庭健「いま、働くということ」による ) |