長文集  3月4週  ○現在の私たちは  re2-03-4
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2010/10/26 12:09:13
 【1】現在の私たちは、生命というものを
個体性によってとらえる。たとえば、私とい
う生命がある。あなたという生命がある。こ
のふたつの生命は無関係な位置にあるのかも
しれないし、何らかの結びつきをもった関係
にあるのかもしれない、というように、出発
点にあるのは固体としての生命である。
 【2】花ひとつひとつにも、木の一本一本
にも、虫一匹(ぴき)一匹(ぴき)にも、も
ちろん動物や人間一人一人にも、それぞれ固
有の生命があり、全体的世界を個体の生命の
集合としてとらえる。
 しかしそれは、特に村においては、近代の
産物だったのではないかと私には思えてくる
。【3】もちろんいつの時代においても、生
命は一面では個体性をもっている。だから個
人の誕生であり、個人の死である。だが伝統
的な精神世界の中で生きた人々にとっては、
それがすべてではなかった。【4】もうひと
つ、生命とは全体の結びつきの中で、そのひ
とつの役割を演じている、という生命観があ
った。個体としての生命と全体としての生命
というふたつの生命観が重なりあって展開し
てきたのが、日本の伝統社会だったのではな
いかと私は思っている。
 【5】この感覚は木と森の関係を見るとよ
くわかる。木はその一本一本が個体性をもっ
た生命である。だから木の誕生もあるし、木
の死もある。しかしその木は、もう一方にお
いて、森という全体の生命の中の木なのであ
る。【6】しかも森の木は、周囲の木を切ら
れて一本にされてしまうと、多くの場合は個
体的生命を維持することもむずかしくなるし
、たとえ維持できたとしても木の形が変わっ
てしまうほどに、大きな苦労を強いられる。
【7】森という全体的な生命世界と一体にな
っていてこそ、一本一本の木という個体的生
命も存在できるのである。この関係は他の虫
や動物たちにおいても同じである。森があり
、草原があり、川があるからこそ個体の生命
も生きていけるように、生命的世界の一体性
と個体性は矛盾なく同一化される。
 【8】伝統社会においては人間もまた、一
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面ではこの世界の中にいた。人間は個人とし
て生まれ個人として死ぬにもかかわらず、村
という自然と人間の世界全体と結ばれた生命
として誕生し、そのような生命として死を迎
える。【9】人間は結びあった生命世界の中
にいる、それと切り離すことのできない個体
であった。
 伝統的な共同体の生命とはそういうもので
ある。ところがその人間は「自我」、「私」
をもっているがゆえに、共同体的生命の世界
からはずれた精神や行動をもとる。∵
 【0】だからこそ共同体の世界は、地域文
化が、つまり地域の人々が共有する文化が必
要であった。それが通過儀礼や年中行事であ
り、それらをとおして人々は、自然とも、自
然の神々とも、死者とも、村の人々とも結ば
れることによって自分の個体の生命もあるこ
とを、再生産してきた。

 (内山節「日本人はなぜキツネにだまされ
なくなったのか」か ら)