長文 7.1週
1. 【1】机の横にコピーに使った紙が積んである。裏の白いところを生かしてメモ用紙にしているのだ。何か用事を思い出すと、さっとメモをとる。計算用紙のかわりにもなるし、作文の構成用紙のかわりにもなる。【2】折りたたんで暗唱用紙のかわりにすることもできる。一枚の
薄い紙が、いろいろな形で役に立つ。この紙にひとまとまりの文字を
載せると、文章の書かれた紙となる。手紙やレポートは、だれかに自分の考えを伝える道具だ。【3】その道具をいちばんの土台で支えているのが、この紙とペンである。私は、この紙のように、さまざまな情報を
載せることのできる教養の大きな受け皿になりたい。
2. そのためには第一に、白紙のように、何でも素直に受け入れる心を持つことだ。【4】日本の昔話に「わらしべ長者」がある。一本のわらにアブをつけて持っていた男が、そのわらしべをミカンと
交換する。やがて、そのミカンを反物と
交換し、反物を馬と
交換し、馬と
交換に家をもらう、という話だ。自分自身の教養を高めるためには、このように何でも素直に受け入れる心が欠かせない。【5】世の中には、相反する意見や情報も多い。それらを先入観なく受け止める心の広さが必要なのだ。
3. 第二の方法は、逆に、素直に受け入れたものの中から、自分に必要なものを
選択する勇気だ。【6】日
露戦争は、日本の命運を決める戦争だったが、この戦争を
遂行した日本のリーダーたちが共通して持っていたものは、困難な
選択を
敢えてする勇気だった。日本が立ち上がることによって初めて東アジアはロシアの支配をはねのけ自立することができた。【7】また、日本の勝利は世界の有色人種の自覚を
促し、その後の世界史の流れを変えた。何でも受け入れる素直な心は、
選択し決断する勇気と組み合わされることによって初めて価値あるものとなる。∵
4. 確かに、自分の得意な特定の専門分野を持つことも必要だ。【8】それは、紙で言えば、自由に
書き込める白紙ではなく
既に印刷された紙だろう。情報が印刷された紙には、それなりの価値がある。しかし、それは、その特定の目的以外に使うことができない。【9】新聞紙の場合は、印刷されていても、弁当の包み紙に使うこともできるが、それは本来の
用途とは言えない。私たちに必要なのは、たくさんの古新聞ではなく、たくさんの白紙だ。机の横に積まれたメモ用紙を生かして、自分らしい広い教養を育てていきたい。【0】
5.(言葉の森長文作成委員会 Σ)
長文 7.2週
1. 【1】生きることは学ぶことであり、学ぶことには喜びがある。生きることは、また何かを創造していくことであり、その創造には、学びの段階では味わえない、大きな喜びがある。【2】このことはどんな人の人生にもあてはまるが、特に学問の世界では
銘記すべき
事柄であろう。
2. 言葉をかえて表現しよう。学問の世界においては学ぶこと、創造することの喜びはとりもなおさず、考えることの喜びだと思う。【3】どんな分野の学問でも何か新しいものを発見し、創っていくことに本来の意義がある。「発見」と「創造」にこそ、意味がある。単なる知識の受け売りは学問とはいえないし評価に値することもない。【4】さまざまな知識は考えるための資料であり、読書は考えるためのきっかけを提供してくれるものである。
3. そう思えば、知識を集めることも案外楽しいことだし、読書も苦にならない。耳で
聴き、体で感じ、目で読んで考える。【5】考えたあとでは
聴いたこと読んだことは忘れ去ってもよいわけだ。覚えていなければならない、忘れてはならないと思うと、学問する前に
疲れてしまい、学ぶこと自体が
億劫になってしまう。【6】本来、学問はそんなに難しいことではなく、考えることの好きな人間なら
誰でも学問することができるし、その喜びを味わうことができるものである。
4. それにしても、そもそも創造を生み出す力はどこからやってくるのか。【7】創造性の背景にある重要な条件とは何なのか。
5. まず、こんな言葉がある。フランスの有名な数学者ポアンカレがいった、「創造とは、マッシュルームのようなものだ」という言葉である。
6. マッシュルームは、キノコの一種である。【8】キノコというと、日本人の私はすぐに
松茸を連想してしまうのだが、すなわち、その
松茸のようなものが創造だ、とポアンカレはいうのだ。
7.
松茸は、周知のように地表下に
菌根と呼ばれる根をもっている。【9】この根は、きわめていい条件が
与えられると次第に円形に広がりながら発達していく。ところが、この好条件がいつまでも続くと、根だけが発達してキノコをつくらずに、ついには老化して死んでしまうのである。【0】植物に
詳しい知人の話によると、実に五百年にわたって根だけが発達し、
枯死した
松茸があるらしい。∵
8. では、どうするか。発達してきた根に、ある時点で、根の成長を
妨害する条件が
与えられなければならないのである。その
妨害条件は、例えば季節の変化による温度の
上昇あるいは下降といった外界の条件であったり、また、松やにとか、酸性の物質とかの物質的条件であったりするようだ。このような条件が
与えられると、その
妨害にもめげずに生きるために、根は
胞子という形で種子をつくって発達を続けようとする。そうして、やがて
松茸となるのである。(中略)
9. 仏教の「
因縁」という言葉を創造性にあてはめて考えてみると、「因」とは、地表下で発達をとげた
松茸の根のように、人が親から
受け継いだり、周囲の人間から学んだり、あるいは学校で勉強したりしながら自分の中に
蓄積していったものではないかと私は思う。だが、この「因」だけがあれば、創造あるいは
飛躍ができるわけではない。「
縁」となるものが必要なのである。ある時点で、
松茸に
与えられる
妨害条件に相当するものが、人がものを創造する上でも必要なのである。
蓄積を表出させる条件が要るのである。それが「
縁」である。ただし「
縁」にも二種類ある。「
順縁」と「
逆縁」である。実生活では、しばしば「
逆縁」が表出エネルギーとなる。「
逆縁」という言葉を
一般的な言葉に
置き換えると、「逆境」という言葉にあてはまるのではないだろうか。
10. 世の中で成功した人は、
大抵、逆境を自分の人生にプラスに
取り込んでいく能力をそなえているように私には見える。創造にも、この逆境が深く関係している、といわなければならない。
11.(
広中平祐「生きること学ぶこと」による。)
長文 7.3週
1. 【1】何といっても、現代技術を
特徴づけるのは豊富な工業製品の
氾濫であろう。少なくとも先進工業国においては、高い生産性に裏づけられた安価で高品質の工業製品を容易に入手することができる。このことが豊かさの
象徴である。【2】そして
途上国においても、そのような豊かさが目標として設定されている。
2. 現代技術は、とりあえず人間にとって有用でない自然資源を
抽出し精練し、そして加工して有用なものに変化させることをその中心としている。【3】豊かさは、このような生産技術によって支えられる。
3. ところが、このような技術の持つ問題が、最近しばしば話題になる。豊富な工業製品をつくり出すための条件としての資源エネルギーについては、その限界が
指摘されてすでに久しい。【4】しかも使用し終わった製品の
廃棄については、安全問題などを引き起こしながら
廃棄場所の重大な不足を招いている。【5】そしてもっと本質的なこととして、資源と
廃棄という、いわば工業製品の条件のみならず、製品そのものの使用の場面においてさえも、道路の容量に対して
過剰な自動車とか、家の中に入り切らない家庭用機器などの問題が起きている。【6】しかも道路の新設は少なくとも都会においてはもはや不可能であり、家の広大化は地価の
高騰によって望むべくもない。
4. 【7】とすれば、自然資源を有用な人工物に
変換することによって豊かさを達成するという、あたかも自明と考えてきた命題は、多くの
矛盾をはらむようになってきたと言わざるを得ない。【8】これらは、人工化
環境における人工物
充填率の限界であり、資源エネルギーの限界であり、
廃棄物処理能力の限界である。そしてこの限界は、局所的現象にとどまらずに、オゾン層
破壊に見られるように地球的規模にまで拡大している。
5. 【9】
依然として工業製品の大量供給という図式に
頼りながら、一方で私たちは別の視点を生み出しつつある。それは、工業製品を使用するのは、それに
潜在する機能を発現させ
享受することが本当の目的であり、製品を所有することはそのための単なる手段にしか過∵ぎないという視点である。【0】事実、レンタルなどの方式は次第に拡がりつつあり、そこには製品の機能を買うという形態が生まれつつある。
6. 考えてみれば、豊富な製品を所有しそれに囲まれて暮らすというのは、それ自体は目的でなく、それらから発現してくる豊富な機能を
享受するのが目的であるのは当たり前のことであり、その所有とは、本来の機能
享受の目的達成を可能にする一手段に過ぎない。とすれば、技術による豊かな社会の実現という視点においては、このような製品所有は必然的なものではない。むしろ機能の売買がより本質的である。
7. 我々が日常生活において、製品を買って所有するかレンタルで機能を買うかの
選択は何気なく行うことが多いであろう。しかしこのことは一見その場面場面では
偶発的なことのようでありながら、結局は
充填率の限界などの現代技術が持つ問題に本質的に
影響を
与えていく重要な視点である。
8.
吉川弘之「テクノロジーの行方」による。
長文 7.4週
1. むかしぼくらは、学生で合宿していたころ、よく上野の動物園へ出かけていった。近かったし、ほかに遊びを持ってなかったし、二〜三枚の銀貨でみんなそろって遊べるので、よくいっしょにドヤドヤッと出かけていった。
2. しかしぼくは、全体としての動物園をあまりすかなかった。第一、
水禽のガアガアなきたてる声があまり
愉快でなかった。第二、広い動物園にいっぱいになってるケモノのにおいがたまらなかった。それがひどくからだを
疲れさせた。らくだなどことにひどかった。ぼくがみんなといっしょによく出かけたのは主として
山猫を見ようためだった。
3.
山猫めは全身まっ黒の毛に包まれて金いろの目をしていた。かれのしっぽはからだよりも長く、イザというときにはこん棒のようになるにちがいない一種特別のふくらみを見せていた。ぼくの知るかぎりかれは、おりの
奥行きの半分より前へは一度も出てこなかった。いつも
奥の方にすわって、けっして人になれることがなかった。ぼくはかれに「ごろつき」の名を
与えた。かれはぼくに、ごろつき、ニヒリスト、かっぱらい、
海賊等のことばを思い出させた。
4.
熊はおりの金棒につかまって
臆面もなく芸当をして見せていた。
虎は金いろのしま目をきらめかしておりのなかを行き来していた。それは落ちぶれた貴族のようにものあわれであったが、同時に落ちぶれた貴族のように浅ましい
媚びを感じさせた。
獅子ときては話にもならなかった。かれはすっかり
食い
肥って、むかしのこともすっかり忘れはててしまい、ここでいつかかれをつかまえた人間どもから
比較的よく
待遇されてることにいい気になってしまい、その「あてがいぶち」に満足しきっていた。
鈍感になってしまったかれは、ここの動物園のなかでさえ自分を王様と考えてるように見えた。それは
豚にも
劣るものだった。
5. しかし
山猫めにそんなことはなかった。
6. かれはまっ黒の顔をしてその金いろの目をピカピカ光らせていた。おりの暗い
奥の方でそれは
燐のように燃えていた。かれはけっして人前で歩いて見せたりはしなかった。こんなところへ
押し込め∵になっていてもいつもかれの国のことを考えていた。かるがると飛び、
飛び越し、全力でかみ、思う存分血を流すかれの国でそれができないくらいなら、そんなところでたとえそれをすることから肉の
一片を手に入れることができるとしても、そんなことのまねをする必要はないと考えていた。
虎や
獅子や
大蛇なぞがこんなばかものになってしまったとすれば、やつらがそんなに
堕落してしまったというその一事のためにもがんばらなければならないと考えていた。かれは本能的に捨て身にかかっていた。それでかれのおりは一種のうすっ気味悪さで見る人に
襲いかかった。それで人びとはかれのおりの前にあまり長く立ちどまらず、なるべく
黙殺する方針をとり、果ては知らず識らず
黙殺して、とうとうそのことに平気になってしまっていた。
7.(中野重治『
山猫その他』)
長文 8.1週
1. 【1】生きもののように
焔をあげ、やがて燃えつきて灰になっていくかつての火の姿には、
霊的な生命を予感させる存在感があり、すべての人びとの心に、火の思い出にまつわるさまざまな感情を呼び起こしたものだったが、そんな火との対話さえ、最近では次第に忘れられていく。
2. 【2】それに代わって、家庭の中には、電気
釜や電子レンジが現れ、石油ストーブやセントラルヒーティングが
普及し、かつてのランプの
焔のまわりに広がっていた
闇のしじまは消え失せて、いたるところに真昼のような人工照明の空間が出現してしまったのである。
3. 【3】考えてみれば、人類の歴史というのは、火の使用という
驚くべき体験によって幕をあげたと同時に、じつは、いかにしてその原初の火を手なずけ、
制御可能なものにするかという
挑戦の歴史であったといえるのかもしれない。
4. 【4】寒さにこごえ、
飢えと動物からの
襲撃にさらされて、四六時中休まることのなかった人類が、はじめて火を手なずけることのできたときの感動は、想像にあまるものだったろうが、それと同時に、その火は油断をすればたちまち消えてしまうか、反対に自分たちを焼き
滅ぼしてしまいかねない
恐るべき存在であったのだ。【5】いわば、神と
悪魔を
兼ねそなえたような、そんな火を、いつでも好きなとき、好きな場所で、好きな目的のために使えるように
制御可能なものにするために、人類は火と
格闘し、火に学び、燃焼を
制御するさまざまな
知恵を発明してきたのだといえる。
5. 【6】もともと火に備わっていた熱や光の属性を、それぞれ目的別、機能別に解体し、それに応じて燃焼の素材や方式を多様に分化させることで、原初の火のもつカリスマ性を
骨抜きにし、【7】いまや
人畜無害で、ポケットに入れて運べるミクロの「火」から、スイッチ一つで呼び出せる「アラジンのランプ」まで、無数の人工的な火の
代替物をつくり出してしまったのである。
6. 【8】皮肉なことに、かつての独裁者的な火の神は、いまではすっかりおとなしくなり、たくましく
焔をあげて燃える原初の火に∵
触れる機会は少なくなったかわりに、火の機能の
代替物は、正体のはっきりしないブラックボックスとして、生活の
隅々にまで
侵入しはじめている。
7. 【9】それはポケットの中のライターのような貧弱なものばかりではない。都市の中の住区から個々の住宅まで、ツリー構造でのびたパイプや針金のネットワークにそって流れる都市ガスや電気などの火の「素」で、その見えない火のネットワークは、かつての原初の火も
及ばぬほどの
強烈な
潜在エネルギーを秘めて、現代人の生活
環境を取り巻いてしまっているのである。【0】
8. かつての原初の火は、個人のレベルで向き合って対処することができたが、このように社会化されてしまった現在の火は、時に個人の知らぬところで暴発する。ネットワークの規模が大きくなるほどその供給源と
末端の間の階層的
距離は広がって、やがて個人の手に負えないものになる。こうして、いまや熱の機能としての現代の「火」は、一方では飼いならされた
柔順なしもべであると同時に、他方ではいつどこで暴走するかしれない不気味なダモクレスの
剣と化してしまっているのである。
9.(
坂根厳夫「科学と芸術の間」より。)
長文 8.2週
1. 【1】最近、料理を
趣味とする人が増えたが、初心者とプロとで一つ大きく
違っていることがある。初心者の場合は本や自分のレパートリーの中から、まず自分のつくりたいものを決め、必要な材料を買いにゆく。【2】材料の中で一つでも手に入らないものがあれば、どこまでも探しにゆく。これに対してプロの料理人は、まず市場をのぞきにゆくという。そしてその日に入荷した材料の中から良くて豊富な
旬のものを見つけると、それを中心にして活かす料理の設計がそれから始まる。
2. 【3】初心者の場合は技術からの発想である。最初に手持ちの技術と設計があり、それに必要な資源を求める。これに対して、プロのほうは、資源からの発想というべきであろう。【4】最終目標についての大まかなイメージはあろうが、設計が初めからきまっているわけではない。まず手に入れられる、資源を前提にして、それを活用するための技術がそれから決まるのである。
3. 【5】資源からの発想が可能なためには、レパートリーが広く、しかも自由にそれを応用し得る能力が必要である。だが結果的にはその時期ごとに最も良い材料で安く良いものをつくることができる。
4. 【6】これまでの近代産業技術は、つねに技術からの発想だったといえる。技術開発も、はじめに
既存の技術があり、それをいかに修正するかの問題であった。設計図が先にあり、それに必要な資源は世界中から運んできた。【7】石炭の豊富なところで始まった技術が全く石炭のないところへ導入されることもしばしば見られることであった。地元に他の資源があってもそれが
既存の技術に合わなければ一切かえりみられず、ひたすら
既存の技術に適する資源を追いもとめてきたのである。
5. 【8】その結果、石油やウランなど地域的に
偏在のはげしい資源への過度の
依存が起こり、それをめぐって各国がしのぎをけずり、国際的な政情の変化に一国の経済
基盤が
揺り動かされるようになったことは、今のエネルギー問題が
雄弁に物語っている。【9】そして今、有力な
代替資源が見当たらないまま、石油資源の
枯渇は目に見えはじめている。
6. だが資源は本当にないのだろうか?
7. エネルギー資源にせよ、鉱物資源にせよ、最近
騒がしくいわれる∵水資源にせよ、よく考えてみると我々の身のまわりにはかなり豊富にある。【0】ないのはそれを活用する技術であり、何よりもそこに目を向ける資源からの発想であった。
8. 近代文明は、技術からの発想に立ってこれまで目覚ましい発展をとげてきた。手引き書の通りやりさえすれば初めての人でも一応の製品がつくれるからである。日本はまさにその優等生であった。だがそれは
所詮、初心者の料理にすぎなかったのではあるまいか? そして今、その基本的な材料の不足に音を上げている……。
9. 今日、人類が直面している危機を
乗り越え、新しい文明への道を
拓くためには、発想を一八〇度
転換して、技術からではなく、資源からの発想に
切り換え得るかどうかが
鍵となることであろう。
長文 8.3週
1. 【1】文章を読んでいて、いっていることが全面的に
肯定されるのではない、また、当面必要なことでもないけれども、じっとしていられないような興奮を覚えることがあって、そういうとき、「
刺激的」という形容詞が使われる。【2】「
刺激的」とはどういうことか。
2. かりに、本を円周のようなものだと考えてみる。読者はゆっくりその円に
添って走り出す。だんだん速度が加わってくると、はじめのように円に
即しているのが困難になり、
カーヴでは外へ飛び出そうとするかもしれない。
3. 【3】「
刺激的」とは、そういう
カーヴをたくさんもった本ということになろう。
4. 読者が予期するようなところへ展開するなら、快感はあっても、
刺激はすくない。【4】逆に、読者の意表をつくようなことがつぎつぎあらわれると、読者はその都度、タンジェントの方向へ飛び出そうとして、そこに
緊張をかもし出す。それが
刺激的と感じられる。
5.
脱線しかけるときに創造のエネルギーが生まれる。【5】直線レールの上を静かにおとなしく走っていれば
脱線の危険もないかわり、
軌道の外へ出たくても出られない。無理な
カーヴを大きなスピードで
走り抜けようとすれば
脱線するかもしれないが、そこに、新しい道のできるチャンスもある。【6】安全な
軌道を選ぶか、危険な
カーヴの多い道を選ぶかは好みにもよるが、発見に便利なのは
脱線の可能性の大きなルートを走ることである。
6. かりに大きな
カーヴがあってもスピードがなければ
脱線しない。【7】安全運転だけを目標とするのなら、
脱線しないのは喜ぶべきことだが、新しい道をつくるには、
軌道の上だけ走っていたのでは話にならない。無理な
カーヴなら
脱線して、より合理的な近道を発見することができるはずである。【8】
脱線するにはスピードを出している必要がある。これは自動車の運転とは
違う。
7.
寝ころがって読んだときに、たいへんおもしろいと思ったから、∵ひとつ
本腰を入れて読んで何かまとめてみようか、などと考えて机に向かって読むとさっぱりおもしろくなくなってしまう。【9】そういう経験はすくなくない。やはり、読む速度が関係しているように思われる。さっと読んだときは、適当に
脱線して、勝手なことを想像しながら読む。ところどころで自分の考えを
触発される。それが「おもしろい」という印象になっている。【0】ていねいに読めばいっそうおもしろくなるように考えるのは誤解で、スピードにともなうスリルが消えると、さっぱり
刺激的でなくなってしまうのである。(中略)
8. 大きな木の下には草も育たない、という。大木はすばらしい。寄らば大樹のかげ、という言葉もあるくらいである。近づきたいと思うのは人情であろう。すぐれた本も大木のようなところがある。その下に立っては手も足も出ないで、ただ、大著名著であることを
賛嘆するにとどまる。大木は遠くから
仰ぎ見るべきものと思って、早くその根もとから
離れる必要がある。
9. これは本だけではなく、すぐれた指導者についてもいいうる。すぐれた
影響力をもっている点にのみ着目していると、そのために個性を失った人間が育つ危険を見落しがちになる。
亜流になりたくなかったら、敬遠して
影響を受ける必要がある。それを
勘違いして、すぐれた先生にはなるべく近づきたいという気持ちにひかれて、せっかくの師の
薫陶を台なしにしてしまうことが、いかにしばしば起こっていることであろうか。すぐれた
師匠の門下にかならずしも
偉才傑物ばかりが
輩出するとは限らないのは、大木の枝の下で毒されて
伸びるべきものまで
伸びないでしまうからであろう。だいいち、門下という言葉からして感心しない。心ある門弟はあえて門外に立つ勇気がいる。
10.
圧倒されそうな
影響をもっているものには不用意に近づかないことである。近づいてもながく付き合いすぎてはいけない。
11.(
外山滋比古「知的創造のヒント」による。)
長文 8.4週
1.
島崎藤村の事を考えると、私の頭に先ず
浮かんで来るのは、「夜明け前」の出版祝賀会の席上で、氏が諸家の祝賀の言葉に対して答えた
挨拶を述べた態度である。
2. 人々のテーブルスピーチが終わると、
藤村は
感慨に
耽り込んだような、そのために少しぼんやりしたような
顔附で静かに立ち上がり、
暫くうつむき加減に
黙って
佇んでいたが、やがて顔をもたげ、太い
眉をきりりと上げて、そしてゆっくりした口調でこういったのである。
3.「わたしは
皆さんがもっとほんとうの事をいって下さると思っていましたが、どなたもほんとうの事はいって下さらない……」
4. そのまま
又眼を
伏せて
暫く黙ってしまった。人々は
粛然と静まり返った。
5. 実際諸家の言葉は月並でない事はなかったが、由来こういう出版記念会などにいわれる言葉は、
普通作者に対する祝賀の言葉かねぎらいの言葉かであるのが例なので、そういうものとして無神経に
聴き流してしまえば、別段とがめ立てしなければならないものでもなかったように思われる。
併しそれをほんとうに
聴き、その中から自分の努力に対する
忌憚なき批評をほんとうに探ろうという気になれば、諸家の言葉が余りに形式的である、月並なお世辞であったという事が、
藤村の心を
寂しくしたとしても、これまた無理ではないかも知れないという気がする。
6. それは
藤村流の静かないい方ではあったが、何処かにぴしりと人を打つような
辛いものを
含んでいた。月並なお世辞に対する苦笑に
充ちた
抗議を持っていた。それだから
突然叱られたといった感じが
黙り込んだ人々の顔に現れたわけである。実際
叱られて見れば、もっともの話である。
叱られなかったら
叱られなくても好いようなことだけれども、
叱られて見るとその理由がない事はないので、急に人々は
襟を
掻き合わせて
坐り直さなければならなくなったと
云った感じであった。
7.
藤村は
暫く黙った後で、再び顔をもたげ、太い
眉を再びきりりと∵上げ
沈んだ調子で言葉を
継いだ。
8.「大体わたしという人間は、人に
窮屈な感じを
与えるのですか、近づき難いような感じを
与えるのですか、
誰もわたしに近づいてほんとうの事を
云ってはくれません……実は決してそうではなく、わたしは人に近づきたいのですけれど……」(中略)
9. 氏はそこで語調を変えて、人々の方を見まわし、こう結語としていった。
10.「今夜のように盛大にわたしのために
皆さんに集まって頂こうとは、わたしには全く思いがけない事でした。わたしはわたしのために
皆さんに集まって頂いた事がわたしの
生涯にもう一度ありました。それはわたしが洋行した時の事です。わたしは前の新橋の停車場から発って行きましたが、田山君や
柳田君が
途中まで送ってくれるといって、
一緒に汽車に
乗り込んで来ました。その時
柳田君がわたしに向かってこんな事をいったのです。『人間がこうして自分のために
沢山の人に集まって
貰うのは、まあ洋行する時ぐらいのものだね。それともう一つある。それはその人間の
葬式の時さ』と。……わたしは今夜
皆さんがこうして集まって下さった事を、わたしに対する
文壇の告別式だと思っています」
11. 右の
藤村の
挨拶は、その時も今も私の頭に相当強い印象を残している。私はたゆまずに一歩一歩と、意志的に自分を
鞭うちつつ、とうとう書きたいものをみんな書いてしまったという強い自信を持った人でなければ、そういう言葉はいわれないと思った。書きたいものをみんな書いてしまったと、静かに
云い切れる作家を目の前に見たという事は、私には全く一個の
驚異であった。私はその事に深い感動を受け、
暫くはその感動のために、自分が
圧迫されるのを感じた程である。
12.(
広津和郎『
藤村覚え書き』)
長文 9.1週
1. 【1】映画「
地球交響曲」のシナリオハンティングのため、フィンランド北部ラップランドの森を歩いた。ラップランドはすでに
北極圏に入っている地域で、冬は雪と氷と
暗闇の世界になる。【2】その分、夏は正反対の世界となり、ラップランドの森は、この夏のわずか数か月の間に、あらゆる草木が一気に
芽吹き、花開き、
萌えるような緑に包まれる。【3】ラップランドの夏の森は、まさにすべての生命によって奏でられる
地球交響曲のコンサート会場といった
雰囲気であった。しかし、ラップランドの森は、実は、エアコンの効いた都会のコンサートホールではなく、真の野性が保たれている大自然である。【4】
撮影を目的として大自然の中に
踏み入る時、私はいつも二つの
矛盾した世界の上に立たされることになる。私は大自然の中でシンフォニーをともに奏でる演奏者のひとりとなるのか、それともそのシンフォニーに耳を
傾ける観客のひとりなのか。
2. 【5】ラップランドの夏の森に一歩足を
踏み入れると、まず最初に
出迎えてくれるのは、美しい若葉の緑でもなく、色
鮮やかな草花でもなく、実はおびただしい数の
蚊やブヨの大群なのだ。【6】しかもその数としつこさは都会生活に慣れた私たちの想像を絶するものがある。写真で見た風景の美しさにひかれてこの森にやって来る都会からの旅人たちは、まずこの洗礼を受けることになる。
3. 【7】だから森に入る旅人は
長袖、長ズボン、そして
蚊よけ
帽子をかぶるのが鉄則となる。ところが、私の立場はそうはいかない。まず第一に、
蚊よけ
帽子をかぶっていたのでは
撮影ができない。【8】そして何よりも、このようないわばバリヤーを自分のからだの周囲に築いてしまうことは、森と対話する最も重要な回路を自ら閉じてしまうことになるからだ。
4. 森の本当の美しさは、
嗅覚・
聴覚・
触覚など五感のすべてが解放されてこそ初めて見えてくる。【9】五感のすべてを解放し、全身で森と対話した時、初めて森は私を受け入れてくれる。
5. 多様な木々、草花、虫たち、動物たち、風、
匂い、光などすべてが深く関わり合って一つの大きな生命体として生きている森。【0】森のすべての生命がそれぞれの役割をにないながら、ともに一つの生∵命のシンフォニーを奏でている。そこには安全に
隔離された観客席はない。もし森が奏でるシンフォニーを
聴きたいなら、どうしてもその森の一員として、
隅っこにでも加えてもらわなければならない。
6. ラップランドの森の夏は短い。
蚊たちはこの短い夏の間に、必死で生きて子孫を残そうとしている。夏の森に
侵入してきた私の肉体から血を吸いとろうとするのは森の自然の
摂理そのものなのだ。私が感じるかゆさもまた森が奏でるシンフォニーの楽音の一つなのかもしれない。そう思うと、
刺された時のかゆさは変わらないにしても、そのことに心乱されることからは少し解放されるような気がした。風や
匂いや音に感覚を研ぎすます
余裕も生まれた。
7.(
龍村仁著「地球のささやき」による。)
長文 9.2週
1. 【1】トンボ王国は、いうなればトンボと親しむためのカタログです。自然保護の場である以上に、博物館やトンボ池を見て回ることで、トンボやトンボを取り巻く
環境に楽しく関わるための知識を身につける場所として、活用すべきだと考えています。【2】ただ、すべての人びとが、トンボやその
環境を見るだけで、トンボたちの
魅力すべてを知り
尽くすとも思えません。
2. やはり、直接的な関わり、たとえば、子供たちにはズバリ、トンボ採りも体験させるべきだと考えています。【3】その理由は、トンボそのものが、ある
年齢の子供たちにとって「かけがえのない美」の対象だと考えているからです。【4】つまり、人が美しい絵に接した時、模造品でも所有したいと思い、あるいは美しい音楽に接すれば、そのCDがほしくなったり、演奏してみたくなったりするように、「美しいもの」を自分のモノにしたいということは、もっとも人間らしい欲望ともいえるのではないでしょうか。【5】そして、子供の欲望は、大人たちのそれとは
違って、対象に
稀少価値があるからというのでもないのです。
3. ともかく、子供たちがそのような理由からトンボ採りを始めたとき、むげに禁止することは、楽しいはずの身近な自然を逆に、つまらない
退屈なものと感じさせはしないかと案じてしまうのです。【6】子供たちがトンボと同格の立場で勝負を競い、そして過ちとして殺生をしたとしても、周囲の大人たちのアフターケアさえよければ、りっぱな情操教育になると確信しています。
4. 【7】確かに、今の子供たちに虫採りをさせてみると、やたら数ばかり競う
傾向が認められます。しかし、これは、子供の遊びに関わる文化が
退廃しているからにほかなりません。【8】少なくとも、私たちが子供の
頃には、シオカラよりも赤トンボ(ショウジョウトンボ)、赤トンボよりもギンヤンマ、同じギンヤンマでも採集方法によって価値が異なるという、
暗黙のルールがありました。
5. 【9】とはいえ、現在の日本では、いかにルール(保護区内では
網を
振らない、
繁殖期前のトンボは採らないなど)を守ったとしても、大勢の子供たちがトンボ採りに興じられるような
環境はほとんど残されていません。【0】ただ、トンボ王国のまわり、
四万十川流∵域にはまだそのような
環境が残っているのです。トンボ王国の夢、それは、池田谷のトンボ王国を
核として、その周辺に広がるあたりまえの自然
環境のいくつかを、体験ゾーンとして整備し活用することです。そのなかで多くの人たち、特に将来のある子供たちに、トンボの住める
環境がほんとうにすばらしいものだと感じさせることができたなら、その子供たちが大人になった時、日本中に多くの子供たちがトンボ採りに興じられる水辺が再生されるに
違いありません。
6.(
杉村光俊・
一井弘行「トンボ王国へようこそ」より)
長文 9.3週
1. 【1】このところ日本では園芸が大はやりであるが、花木や草花の
名称が大変な勢いで外来語に
置き換えられている。旧来の日本の花の名は美しく
風雅なものがほとんどであるのに、たとえば
彼岸花の類はリコリス、
胡蝶蘭はファレノリプシスといった具合に、年ごとに
言い換えの数が増えていく。
2. 【2】もともと気候風土の関係で、日本は植物の種類の豊富さにかけてはヨーロッパのどの国よりも
恵まれていた。【3】そのうえ、古くから古代中国の
影響で
本草学が発達し、また
江戸時代の園芸の
興隆、茶道の
普及などのおかげで、日本の草花の名は英語などに比べると、それこそ
比較にならぬぐらい、味のある
巧妙なものが多かった。
3. 【4】これに反し、花木や草花が決定的に少なかった英国では、当然の結果として固有の植物名が
乏しく、したがって新たに植物に名をつけるときは、学問的なギリシャ語やラテン語に
頼らざるを得ない。【5】その難しい英語名を日本人が外来語として取り入れた結果、一度や二度聞いたのでは覚えることもできない、
紛らわしく言いにくい名前が、花屋の店頭やテレビ園芸の時間などに、次から次へと現れてくることになった。
4. 【6】
四季咲きと言えばだれでも分かるのにセンペルフロレンスとなると、ラテン語の知識のある人なら問題がないが、
一般の人、
殊に園芸愛好家の
高齢の人には、何やら
呪文めいて正しく発音することも難しい。【7】風車と言えば花の形をうまくとらえた
巧妙な名と感心できるし覚えやすくもあるのに、クレマチスでは何の見当もつかない。
彼岸花ならば、花の
咲く季節との関係でだれにでも分かりやすいのに、それをどうして呼び
換える必要があるのだろうか。
5. 【8】このような現象の背後に、絶えず新しさを求め続ける日本人の積極性を認める人がいるかもしれない。私もその精神は評価すべきだと思うが、それにしても、このような意味不明のなぞめいた外来語で、ほとんど芸術的とさえ言える美しく
巧みに工夫された従来の和名を
置き換えて、いったいだれが得をすると言うのだろうか。∵【9】
新奇さを求める心が
一概に悪いとは言えないが、この園芸の分野に見られるような、行き過ぎた外来語の流行はやめてほしいと思う。「バラの花はどんな名で呼ぼうと変わりなくにおう。」というシェイクスピアのロミオの言葉を、日本人は改めて思い起こす必要がある。【0】
6.(
鈴木孝夫「教養としての言語学」による)
長文 9.4週
1. 近ごろは、ロンドンにいる、あるいはイギリスにいる日本人はかえって英語を使わなくなったのではないか。日本から同日に配達される日本経済新聞と朝日新聞を読み、衛星放送で日本のテレビを見る。そうすれば英語など使わなくていいのである。そういう考え方の人がふえているのではないだろうか。
2. こういう生活をして、本人たちはたいへん気楽なつもりでいるが、イギリスの側からいわせると、こういう日本人はイギリスに来ていったい何をしているんだろう、となる。お
金儲け以外なにもしていないのではないか。イギリス人をわかろうともしないし、イギリス社会について知ろうともしないじゃないかと。
3. こうして、イギリス人の胸の中にひそんでいる時間はしだいにふくらんでくることは
間違いない。
彼らはこんなふうに思うのだ。――日本人はイギリスに来て、したい放題のことをしている。お金は使ってくれるし、
企業も進出してくれるかもしれないが、実際にやっていることはマナーもないし、イギリス人に敬意を
払おうともしない。自分たちだけで好きなことをやって、ここがまるで自分たちの治外法権の場所みたいな顔をしている。いま若い日本人がますますそういう
傾向になっていくとしたら、将来はかなり心配である。日英関係にかならず
悪影響を
及ぼすのではないか――。
4. いうまでもないことだが、イギリスにいる日本人のすべて、日本のビジネスマンのすべてがそうだということではない。特に
企業人からも尊敬され、公の場所で意見もいうし、イギリス政府にたいしてアドバイスもする。
5. こうした日本の
企業人とイギリス
企業人との大きな
違いは、日本の
企業のトップは、ビジネスができるだけでなく、教養があるという点である。
彼らは文学や芸術のことも話せるし、実際、そういうことに興味をもっている。イギリスのビジネスマンは、サッチャーさんの高等教育拡大方針にもかかわらず、お
金儲けはできるし、マネジメントの才もあるが、じつは教養や文化にかかわりのない人が多いのである。お金がたまったらそれを持って外国へ出ようとか、ホリデーをたっぷりとろうとかいうことばかり考えていて、自分の教養を深めるということはしないし、本を読むこともしない。
6. そういうビジネスマンが多いイギリスで、日本のトップクラスのビジネスマンは、詩の本を読んでいるとか芸術のこともわかるとか、とてもすばらしいと思われている。もちろんイギリスにもそう∵いう人もいるが、マナーもすばらしいし、英語もきちんと話せる、いわば世界レベルの日本のビジネスマンがふえていることもまた確かなのである。
7. そうしたトップクラスのビジネスマンと、日本からやってきたとたんに、日本にはお金があって、イギリスから習うものは何もないと、まるで植民地にでも来たように
威張ってみせる若い人たちとの差がひじょうに拡大してきているのではないか。
8. 長いあいだイギリスにいて、日本
企業の地位を高めるのに努力してきた日本のトップクラスのビジネスマンの苦労は、日本が経済的に世界で大きな地位を
占めるようになってから生まれた若い人たちの軽はずみな言動やバカげた
行為によって
覆されてしまうのではないか――そんなことが
危惧されるようになってきたのが当節のイギリスなのである。
9.(マークス
寿子『大人の国イギリスと子どもの国日本』)