長文 8.1週
1. 【1】骨董こっとうはいじるものである。美術は鑑賞かんしょうするものである。そんなことをいうと無意味な酒落のように聞こえるかも知れないが、そんなことはない。【2】この間の微妙びみょうな消息に一番早く気づいたのは骨董こっとう屋さん達であって、だれが言いだしたともなく、鑑賞かんしょう陶器とうきという、昔は考えてもみなかった言葉が、通用するに至っている。【3】言葉はみょうだが、骨董こっとう屋さんの気持ちから言えば、それはいじろうにも、残念ながらいじれない陶器とうきをいうのである。鑑賞かんしょう陶器とうきという新語の発明が、いつごろか無論はっきりしないが、おそらく昭和以後の事であろうと思えば、日本人が陶器とうきに対して、茶人的態度を引き続きとっていた期間の驚くおどろ ほどの長さを、今さらのように思うのである。
2. 【4】ぼくは、茶道の歴史などにはまるで不案内であるが、茶器類の不自然な衰弱すいじゃくした姿が、意外に早くから現れているところから勝手に推断して、利休の健全な思想は、意外に短命なものだったのではあるまいか、と思っている。【5】しかし、茶道の衰弱すいじゃく堕落だらくの期間がいかに長かったとはいえ、器物の美しさに対する茶人の根本的な態度、美しい器物を見ることと、それを使用することが一体となっていて、その間に区別がない、そういう態度は、極めて自然な健全な態度であるとは言えるのである。【6】焼き物いじりがぼくにそのことを痛感させた。ぼくも現代知識人の常として、茶人趣味しゅみなどにはおよそ無関心なものだが、利休が徳利にも猪口ちょこにも生きていることは確かめ得た。【7】美しい器物を創り出す行為こういを美しい器物を使用するうちに再発見しようとした、そういうところに利休の美学(みょうな言葉だが)があったと言えるなら、それが西洋十九世紀の美学とほとんど正面衝突しょうとつをする様を、ぼくの焼き物いじりの経験が教えてくれた。【8】そしてこの奇怪きかい衝突しょうとつは、茶人がとなり隠居いんきょとなり終わった今日でも、しかと経験し得るものなのである。
3. 【9】先日、何年ぶりかでトルストイの「クロイチェル・ソナタ」を読み返し、心を動かされたが、この作の主人公の一見奇矯ききょうと思われる近代音楽に対する毒舌は、非常に鋭くするど て正しい作者の感受性に裏∵付けられているように思われた。【0】行進曲で軍隊が行進するのはよい、舞踏ぶとう曲でダンスをするのはよい、ミサが歌われて、聖餐せいさんを受けるのはわかる、だが、クロイチェル・ソナタが演奏される時、人々は一体何をしたらいいのか。だれも知らぬ。わけの解らぬ行為こうい挑発ちょうはつするわけの解らぬ力を音楽から受けながら、音楽会の聴衆ちょうしゅうは、行為こういを禁止されて椅子いす釘付けくぎづ になっている。
4. 行為こういをもって表現されないエネルギーは、彼等かれらの頭脳を芸術鑑賞かんしょうという美名の下にあらゆる空虚くうきょ妄想もうそうで満たすというのだ。何と疑い様のない明瞭めいりょうな説であるか。心理学的あるいは哲学てつがく的美学の意匠いしょう凝らしこ  て、身動きも出来ない美の近代的鑑賞かんしょうに対しては、この説は、ほとんど裸体らたいで立っていると形容してよいくらいである。周知のように、トルストイは、ここから近代芸術一般いっぱんを否定する天才的独断へ向かって、真っすぐに歩いた。無論そんな天才の孤独こどくが、ぼく凡庸ぼんような経験に関係があるわけはない。ただ、かれ遂につい あの異様な「芸術とは何か」を書かざるを得なくなった所以は、かれが選んだそもそもの出発点、かれ審美しんび的経験の純粋じゅんすい素朴そぼくさにある。そのはだかのままの姿から、強引に合理的結論を得ようとしたところにある。これは注意すべきことなのである。
5. もし美に対して素直な子供らしい態度をとるならば、行為こういを禁止された美の近代的鑑賞かんしょうの不思議な架空かくう性に関するトルストイの洞察どうさつは、僕達ぼくたちの経験にも親しいはずなのである。昔は建築を離れはな た絵画というような奇妙きみょうなものをだれも考えつかなかったが、近代絵画には額縁がくぶちという家しか、本当に頼りたよ になる住居がなくなって来ている。

6.(小林秀雄ひでおの文より)