長文 9.2週
1. 【1】比喩ひゆ的な表現であるが、人間は、外の自然と共通で、外の自然と交流しあう、情緒じょうちょ的で、感覚的な、あるいは食欲や性欲という生命力の表現をはじめとする身体的な、いわゆる「第一の自然」とよばれるものと、科学、技術、生産などにかかわる「第二の自然」とよばれる二つの自然を持っており、その交錯こうさく、調和、統一によって生きている。
2. 【2】だから、人間が自分を全体として生きることは、第一の自然と、第二の自然を統一して、他者との共存の中で生きることを意味しており、それが豊かさ感、という充実じゅうじつした幸せ感をもたらすのだと考えられる。【3】経済価値にのみつっ走ることは、人間の二つの自然の調和にそぐわないことではないだろうか。
3. 日本には、アメニティという言葉の正確な訳語がないといわれるが、アメニティとは、あるべきところに、あるべきものがある、ということだという。【4】つまり、それは、第一の自然と第二の自然が、統一され、敵対的でなく、共存をひろげていくことを意味する言葉であろう。そして日本では、技術や生産力の価値があまりに支配的になってしまっているため、「あるべきもの」も「あるべきところ」も、わからなくなっているのであろう。
4. 【5】二つの自然の統一、調和というとき、注意しておかなければならないことがある。科学とか、技術とか、生産などのいわゆる第二の自然にかかわる言語表現は、数字や法則を含めふく て、多様で正確な表現形式を持っていると思われる。【6】金銭については最も簡明である。ところが、あの山はすばらしい、とか、この絵や音楽はいい、という感覚的な、第一の自然にかんしては、私たちは、ほとんど数字や法則のような客観的な表現を持っていない。【7】「悲しい」という一言の背後には、おそらくいろいろなものがあるのだが、悲しみが深くなればなるほど、それは「悲しい」としか言いようがなく、人びとは、それを、体験的に悟るさと か、あるいは感覚的身体的なものによって、相互そうご了解りょうかいしあうことができるにすぎない。
5. 【8】感覚や感情を正確に客観的に表現するのが難しいだけでなく、人間には無意識の領域さえあるのだという。
6. 【9】私がここで問題にしたいのは、人間というものは(あるいは自然というものは)、まだ知られていない多くのものを持っている未知の存在で、ただモノとカネがあれば幸せだ、ときめつけられるほど単純なものではない、ということである。【0】つまり、豊かな社会の実現は、モノの方から決められるのでなく、人間の方から決めら∵れなければならないということである。
7. 客観的な表現はできないけれども、この第一の自然、感覚や感情や身体という、私たちの生を支えているものにも正当な座席を与えあた なければ、本当の豊かさ感は得られないのではないだろうか。
8. ここで誤解をさけるために言えば、この感覚の世界は一人一人に完全に個別的なものではない。また、捉えとら にくいもの、証明できないものは、存在しない、ということでもない。むしろ、あまりにも自明なことのために、ことさらに説明する必要がないのだと思われる。
9. だからこそ、カネや、政治家の演説ではごまかされないものとして、この人間の、共通の感受性の世界がある。この世界にも豊かさ感をかんじさせるような技術、生産、社会のありかたこそが、本当の豊かさではないだろうか。それは地球的な豊かさと共通する豊かさである。そしてその豊かさは、体験の中でしか感じ表現することができないからこそ、人間は、豊かな全人間的体験を体験できるような余暇よか──つまり自由時間を必要とする。

10.(暉峻淑子てるおかいつこの文章による)