長文集  10月2週  ★学校について友人と(感)  ru-10-2
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2012/06/15 08:09:23
 【1】学校について友人と話したとき、彼
がおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園じ
ゃお歌とお遊戯ばかりだったのに、どうして
学校に上がるとお歌とお遊戯が授業から外さ
れるんだろうというのだ。
 【2】小学校に入ると音楽の時間に楽譜の
読みかた、笛の吹きかた、合唱のしかたは習
った。体育の特別授業として一学期に一、二
回、フォークダンスの練習もした。が、どち
らの時間も生徒だった頃のわたしはてれにて
れた、あるいはふてくされた。【3】なにか
恥ずかしかったからである、おもしろくなか
ったからである。ひとといっしょに歌うのは
楽しいはずである。踊るのも楽しいはずであ
る。ついこのあいだも見物してきたのだが、
知人がやっている阿波踊りの連の練習会を見
ているだけでもそれは分かる。【4】みんな
同じように踊りながら、みんなどことなく違
う。勝手に踊ってい る。音楽や体育の時間
は、音と動作をきっちり揃えることが要求さ
れる。それがつまらない理由だ。【5】もと
もとみんなで同じような動作をすることは楽
しいのだが、同じ動作をするのはいやなの 
だ。ファッションだってそう。みんなよく似
た服装をしているが(していないと不安だが
)、同じ服装は絶対にいやなのだ。
 【6】幼稚園では、いっしょに歌い、いっ
しょにお遊戯をするだけでなく、いっしょに
おやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こ
っていることを生き生きと感じる練習だ。そ
ういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、
不思議なかんじがする。ここで他者への想像
力は、幸福の感情と深くむすびついている。
 【7】生きる理由がどうしても見当たらな
くなったときに、じぶんが生きるにあたいす
る者であることをじぶんに納得させるのは、
思いの外むずかしい。そのとき、死への恐れ
は働いても、生きるべきだという倫理は働か
ない。【8】生きるということが楽しいもの
であることの経験、そういう人生への肯定が
底にないと、死なないでいることをじぶんで
は肯定できないものだ。お歌とお遊戯はその
楽しさを体験するためにあったはずだ。【9
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】永井均は最近の著作のなかでこう書いてい
る。「子供の教育において第一になすべきこ
とは、道徳を教えることではなく、人生が楽
しいということを、つまり自己の生∵が根源
において肯定されるべきものであることを、
体に覚え込ませてやることである」と。【0
】あるいは、幼児期に不幸な体験があったと
して、それに代わるものを、それに耐えられ
るだけの力を、学校はあたえうるのでなけれ
ばその存在理由はな い。だれかの子として
認められなかった子どもに、その子を「だれ
か」として全的に肯定することで、存在理由
をあたえうるのでなければ、その存在の意味
がない。
 近代社会では、ひとは他人との関係の結び
方をまずは家庭と学校という二つの場所で学
ぶ。養育・教育というのは、共同生活のルー
ルを教えることではある。が、ほんとうに重
要なのは、ルールそのものではなくて、むし
ろルールがなりたつための前提がなんである
かを理解させることであろう。社会において
規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従う
だろうという相互の期待や信頼がなりたって
いるときだけである。他人へのそういう根源
的な(信頼)がどこかで成立していないと、
社会は観念だけの不安定なものになる。
 幼稚園でのお歌とお遊戯、学校での給食。
みなでいっしょに身体を使い、動かすことで
、他人の身体に起こっていること(つまり、
直接に知覚できないこと)を生き生きと感じ
る練習を、わたしたちはくりかえしてきた。
身体に想像力を備えさせることで、他人を思
いやる気持ちを、つまりは共存の条件となる
ものを、育んできたのである。
 
 (鷲田清一の文章から)