1. 【1】学校について友人と話したとき、
彼がおもしろい問いをぶつけてきた。
幼稚園じゃお歌とお
遊戯ばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお
遊戯が授業から外されるんだろうというのだ。
2. 【2】小学校に入ると音楽の時間に
楽譜の読みかた、笛の
吹きかた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だった
頃のわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。【3】なにか
恥ずかしかったからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。
踊るのも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている
阿波踊りの連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。【4】みんな同じように
踊りながら、みんなどことなく
違う。勝手に
踊っている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり
揃えることが要求される。それがつまらない理由だ。【5】もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。
3. 【6】
幼稚園では、いっしょに歌い、いっしょにお
遊戯をするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。
4. 【7】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いの外むずかしい。そのとき、死への
恐れは働いても、生きるべきだという
倫理は働かない。【8】生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への
肯定が底にないと、死なないでいることをじぶんでは
肯定できないものだ。お歌とお
遊戯はその楽しさを体験するためにあったはずだ。【9】
永井均は最近の著作のなかでこう書いている。「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生∵が根源において
肯定されるべきものであることを、体に
覚え込ませてやることである」と。【0】あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに
耐えられるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を「だれか」として全的に
肯定することで、存在理由をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。
5. 近代社会では、ひとは他人との関係の結び方をまずは家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという
相互の期待や
信頼がなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な(
信頼)がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。
6.
幼稚園でのお歌とお
遊戯、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備えさせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。
7.
8. (
鷲田清一の文章から)