長文 10.2週
1. 【1】学校について友人と話したとき、かれがおもしろい問いをぶつけてきた。幼稚園ようちえんじゃお歌とお遊戯ゆうぎばかりだったのに、どうして学校に上がるとお歌とお遊戯ゆうぎが授業から外されるんだろうというのだ。
2. 【2】小学校に入ると音楽の時間に楽譜がくふの読みかた、笛の吹きふ かた、合唱のしかたは習った。体育の特別授業として一学期に一、二回、フォークダンスの練習もした。が、どちらの時間も生徒だったころのわたしはてれにてれた、あるいはふてくされた。【3】なにか恥ずかしかっは     たからである、おもしろくなかったからである。ひとといっしょに歌うのは楽しいはずである。踊るおど のも楽しいはずである。ついこのあいだも見物してきたのだが、知人がやっている阿波あわ踊りおど の連の練習会を見ているだけでもそれは分かる。【4】みんな同じように踊りおど ながら、みんなどことなく違うちが 。勝手に踊っおど ている。音楽や体育の時間は、音と動作をきっちり揃えるそろ  ことが要求される。それがつまらない理由だ。【5】もともとみんなで同じような動作をすることは楽しいのだが、同じ動作をするのはいやなのだ。ファッションだってそう。みんなよく似た服装をしているが(していないと不安だが)、同じ服装は絶対にいやなのだ。
3. 【6】幼稚園ようちえんでは、いっしょに歌い、いっしょにお遊戯ゆうぎをするだけでなく、いっしょにおやつやお弁当も食べる。他人の身体に起こっていることを生き生きと感じる練習だ。そういう作業がなぜ学校では軽視されるのか、不思議なかんじがする。ここで他者への想像力は、幸福の感情と深くむすびついている。
4. 【7】生きる理由がどうしても見当たらなくなったときに、じぶんが生きるにあたいする者であることをじぶんに納得させるのは、思いの外むずかしい。そのとき、死への恐れおそ は働いても、生きるべきだという倫理りんりは働かない。【8】生きるということが楽しいものであることの経験、そういう人生への肯定こうていが底にないと、死なないでいることをじぶんでは肯定こうていできないものだ。お歌とお遊戯ゆうぎはその楽しさを体験するためにあったはずだ。【9】永井ながい均は最近の著作のなかでこう書いている。「子供の教育において第一になすべきことは、道徳を教えることではなく、人生が楽しいということを、つまり自己の生∵が根源において肯定こうていされるべきものであることを、体に覚え込まおぼ こ せてやることである」と。【0】あるいは、幼児期に不幸な体験があったとして、それに代わるものを、それに耐えた られるだけの力を、学校はあたえうるのでなければその存在理由はない。だれかの子として認められなかった子どもに、その子を「だれか」として全的に肯定こうていすることで、存在理由をあたえうるのでなければ、その存在の意味がない。
5. 近代社会では、ひとは他人との関係の結び方をまずは家庭と学校という二つの場所で学ぶ。養育・教育というのは、共同生活のルールを教えることではある。が、ほんとうに重要なのは、ルールそのものではなくて、むしろルールがなりたつための前提がなんであるかを理解させることであろう。社会において規則がなりたつのは、相手も同じ規則に従うだろうという相互そうごの期待や信頼しんらいがなりたっているときだけである。他人へのそういう根源的な(信頼しんらい)がどこかで成立していないと、社会は観念だけの不安定なものになる。
6. 幼稚園ようちえんでのお歌とお遊戯ゆうぎ、学校での給食。みなでいっしょに身体を使い、動かすことで、他人の身体に起こっていること(つまり、直接に知覚できないこと)を生き生きと感じる練習を、わたしたちはくりかえしてきた。身体に想像力を備えさせることで、他人を思いやる気持ちを、つまりは共存の条件となるものを、育んできたのである。
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8. (鷲田わしだ清一の文章から)