1. 【1】もう三〇年も前のことだが、一九六〇年代の中ごろ、ヨーロッパの街角で初めて日本車が走っているのを見たとき、
涙が出るほど感激したことがある。
2. 【2】当時の日本の工業製品は、まだ性能的にも機能的にもかなり
お粗末で、
欧米に
対抗できるのは価格だけといわれていた時代である。自動車も例外ではなく、これでドイツのアウトバーンをフルスピードで走ることができるのか、と現場技術者の間で心配の声が出るほどだった。
3. 【3】それが、今では「メイド・イン・ジャパン」といえば、性能の良さ、
信頼性の高さの代名詞にさえなっている。技術後進国だった日本は、
欧米に追いつこうと
懸命にキャッチアップを続けた結果、わずか三〇年で追いつき、
追い越してしまったのである。この速さは特筆に値する。
4. 【4】キャッチアップの速さは、何も戦後の製造業に限ったことではない。
奈良の大仏や戦国時代の
鉄砲に代表されるように、日本人は異質で高度な文明・文化に
触れたとき、それを率直に評価して
猛烈な勢いで取り入れ、追いついてきた。
5. 【5】
鉄砲を例にとれば、一五四三年(天文一二年)種子島に伝来した
火縄銃はわずか二
挺にすぎなかったといわれている。それがあっという間に全国に伝わり、世界有数の
鉄砲製造国になってしまった。
6. 【6】この
驚異的なキャッチアップの速さを可能にした秘密は、どこに
隠されていたのか。一言でいえば、最新技術を受け入れ、消化するだけの素地=
潜在能力が、
既に日本にあったということである。
7. 【7】
鉄砲の場合は伝来以前に高度な金属加工の技術の
蓄積があった。また、明治以降の近代化も、その前提条件として、日本の木工技術が
既に欧米人が目を見張る段階にまで成熟していたという事実がある。【8】産業構造においても、素材から
下請けにいたるまで、すべての社会的機能が整っていた。これらの要素が複合して近代化のスピードを速める
基盤となったのである。
8. 【9】にもかかわらず、現代の日本人は、この
驚異的な速さのキャッ∵チアップを可能にしてきた自らの
潜在能力に
誇りをもっていない。それは、
欧米から「もの真似上手」という思いもよらぬ批判を浴び続けてきたからである。【0】「もの真似」だけが上手で独創性はまったくない……というマイナス評価が
繰り返し伝えられたため、独創性
欠如コンプレックスに
陥ってしまったのである。
9. しかし、歴史を少しひもといてみると分かることだが、かつての日本人は、「もの真似」に対してそれほどコンプレックスを
抱いてはいなかった。例えば、職人の世界に代表される技術の現場では、昔から必ずグループで仕事をしてきた。そこでは、一人が何か新しい技術をマスターすると、みんなが真似をした。教える際も手取り足取りではなく、「習うよりは慣れろ」、あるいは「見て
盗め」と
突き放して技術を覚えさせた。つまり、学ぶということは、
徹底して「真似る」ことだったのである。
10. 芸事などでも、古くから「守・破・
離」という一つの発展段階説があった。まず、伝統的な古いやり方を、そのとおりに守って
徹底して学ぶ。そして基本技術を十分にマスターした上で、次の段階として古い伝統的なものを破り、やがては学んだものと
離れて、まったく独創的な方式を確立し、新たな流派を形成(=立派)していった。
11. このように、日本人には、
徹底して「真似る」=「学ぶ」姿勢こそが独創性を発揮する大前提であるとする歴史があったのである。それを「真似る」=「独創性の
欠如」と
勘違いするようになったのは、「守・破・
離」の「破」と「
離」の識別が明確にされていなかったからではないだろうか。(中略)
12. 大切なことは、時代的発展段階を
織り込んで考えてみることである。現代では世界の
最先端をいくアメリカも、一九世紀には技術後進国でヨーロッパの進んだ技術文明を
模倣していた。その
証拠に、アメリカ人がノーベル賞を多く受賞し始めたのは、たかだか第二次大戦以降になってからだ。日本人が「もの真似上手」と言われることに、過度のコンプレックスを
抱く必要はまったくないのである。
13. (
石井威望「日本人の技術はどこから来たか」による)