ルピナス の山 11 月 3 週 (5)
★昔話の研究を(感)   池新  
 【1】昔話の研究をすることは、そこに隠された民衆の知恵のようなものを感じとることになり、現代に生きるわれわれに対しても思いがけぬ示唆を与えてくれる。
 【2】昔話と老人ということになると、まずわが国の昔話にはよく老人が登場することに気づかれるであろう。実はこのことは日本の昔話のひとつの特徴であり、内外の昔話研究者の指摘しているところである。【3】このことをどう解釈するかはここでは触れないでおくが、昔話に登場する老人がどのような知恵を与えてくれるか調べてみることにしよう。「うばすて山」という昔話では、六十歳になって山にすてるべき老人を息子がかくまっている。【4】殿様があるとき「灰で縄をなって来い」と百姓たちに言いつける。だれもできずに困っているときに、老人が息子に、縄を固くなって、それをだいじに焼いて灰にしてもってゆけと教えてやる。このようなことから老人の知恵が殿様に認められ、うばすての習慣がとりやめになる。【5】この昔話で極めて象徴的なことは、皆が灰で縄をなうのに苦労しているとき、老人はそれを逆にとらえて、縄をなってから灰にしたことである。
 老人の知恵は思考の逆転の必要性を示している。【6】このような思い切った発想こそ、われわれが老人のことを考えるときに必要なことではなかろうか。老人は何もできない、能率的でないから駄目だと皆は言う。これを逆転して、老人は何もしないし非能率的だから価値があると考えてみてはどうだろう。【7】実際、われわれはあくせく働き、能率や進歩を追求してきて、本当に幸福になったであろうか。物質的豊かさと精神の貧しさに病んでいないだろうか。【8】何をしたのか、どれくらい利益を得たのか、そんなことにわれわれがあまりにもこだわりがちとなるとき、ただそこに存在するだけという老人の姿は、価値とは何かについて重要なことを教えてくれるのではなかろうか。
 【9】「貧乏神」という昔話にでてくる老人は、もっと思い切った知恵を授けてくれる。詳細を語ると面白いが省略してエッセンスのみを言うと、若夫婦の家に住みついた貧乏神の老人が金もうけの∵方法を教えてくれるのだ。【0】それは、殿様の行列が通りかかるのでその駕籠(かご)のなかを目がけてなぐりこめ、というのである。結局、若者は老人の言いつけに従って金を獲得するのだが、ここで「殿様をなぐる」などというまったく途方もないことがでてくるところが興味深いのである。
 封建時代には殿様は絶対的な存在である。それに対してあえてなぐりかかるものこそが、黄金を獲得できるのだ、と老人の知恵は告げている。ユングは無意識が意識の一面性を補償する傾向があることを、つとに指摘している。昔話もそれと同様に公的で常識的な考えを裏から補償する傾向をもっていると思われる。従って、それは思いがけない解決の道を示唆するのである。殿様が絶対的であった時代に、このような話をもっていた日本の民衆というものは、なかなかの活力を底に秘めていたのではなかろうか。
 ところで、昔話には類話というものがあり、「貧乏神」にもいろいろな類話が存在している。それをみるとまた興味深い。殿様をなぐるのに気がひけて家来をなぐったので、大金持ちになれず小金持ちになったというのがある。あるいは、貧乏神の老人に福の神が通るからつかまえろと教えられるが、たくましい馬がやってきて怖くてつかまえられない。二度も失敗して最後に弱そうなのがきたのでとびつくと、それは貧乏神で元どおりになったなどという愉快なのがある。これは、「ものごとをやるときは思い切りが必要だ」ということを示しているものとも言えるが、せっかくとびついたら元の貧乏神というところに巧まぬユーモアがあり、どうせ貧乏でもいいさという諦観のようなものさえ感じさせる。類話のなかにはどうせ同じこととひらき直って金持ちになる話も存在している。
 これらの類話の多様性は人生の問題の解決法の多様性を示している。これでなければ、という固いことではなく、人によっていろいろの生き方があり、それはそれなりに面白いものだ、と昔話の知恵はわれわれに語りかけてくるのである。このように昔話を読むことは、現代のわれわれの生き方と直接につながってくるのである。