長文集  12月1週  ★日本のふつうの書きことば(感)  ru-12-1
    毎日1ページ音読しましょう。漢字はふりがなをつけずに読めるようにしておきましょう。  2016/09/14 14:31:43
 【1】日本のふつうの書きことばでは、漢
字の地位が絶対的に高く、それに比べてカタ
カナは、代用的な役割しか引き受けていな 
い。前者は高度に抽象的な概念の表記に不可
欠とされるのに対し、後者はガチャガチャ、
ドタバ夕など、できごとそのままをむき出し
にした、いわば幼稚園文字である。
 【2】ところが、カタカナが時に、この地
位を逆転して、漢字のはるかに及ばない威信
を帯びることがある。欧米の学芸や学芸人を
示すのに用いられるばあいそうであって、た
とえば「フィロゾフィー」が「哲学」より一
段高い威信をあらわすとき、かの幼稚園文字
が、一転して欧米先進文化の光りかがやく代
弁者の地位に躍り出るのである。
 【3】しかしそうなるのは、もとが漢字で
はない文字のあらわす音をカタカナが示そう
とするばあいに限るのであって、もとにある
のが漢字であるとなれば、事態は一変してし
まう。【4】もしその漢字の音をカタカナで
写し、それで押し通そうとするならば、思い
もかけないほどの強い抵抗に出会うであろう
。たとえばその国で一般にそう呼ばれている
ように「トン・シァオピン」と書くとどこか
不安なのに、漢字で書いて、トー・ショーヘ
ーと読めば、普通の日本人は安心するだろう
。【5】この日本式呼び名を聞いて、それが
誰だかわかる中国人はほとんど居ないにもか
かわらずである。この安心感は、音はなぞり
でしかないのに、漢字はオリジナルで不変だ
という安心感から来ている。しかしそのオリ
ジナル性は、音のオリジナル性を全く犠牲に
した上に成りたった、無努力、横着のオリジ
ナル性である。
 【6】こういう一面的なオリジナル性の上
にできた二つの言語間の交流は、たいていは
一方の側の、ときには双方の側からの独善に
もとづく、まがいものであるのが普通だ。【
7】なぜなら、人は話をすることによって交
流するのが基本だからである。そうでない、
文字だけの交流は、その文字エリートや、か
れらの作った制度によって管理されたものだ
からである。
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 【8】いま私がかりに韓国に行って、そこ
の男ないしは女と仲良くなったとする。その
仲良くなり方が学問的、職業的なものか、よ
り人間的なものであるかは問わない。とにか
くその人が自分を「カン」だと名のれば、私
はその人の名を「カン」さんとして心の中に
刻み∵つけ、終生変えることはないだろう。
【9】しかしその人の名を学生名簿とか新聞
記事で「姜」という文字によって知れば、そ
の日本式読み方に従って「キョウ」と発音す
ることになるだろう。それは紙の上のつき合
いにとどまるからそれですむのであるが、も
し彼、もしくは彼女を私が愛していれば、絶
対に「カン」でなければならない。
 【0】文化の交流が一方的に統制されたも
のから相互的で直接的なものへと移ると、こ
とばは紙から抜け出て音になる。韓国の人気
歌手チョー・ヨンピルを愛するファンが、ど
うして彼をその紙のことばの趙容弼に従って
、チョー・ヨーヒツなどと呼びかえる気にな
れるだろうか。ヨーヒツは決してヨンピルで
はないのである。福岡に居る韓国人牧師さん
が自分の呼び名のことで、もう十年来こうい
う訴えを続けているのに、日本の裁判所はわ
かろうとしない。つまり、ことばには愛があ
るということを理解しないのである。
 
 田中克彦「国家語をこえて」から(一部直
す)